哲学者と芸術家III――フーコーとエノンセ

philosophy
2008.10.10

五月革命以降、一九七〇年代を前後するわずかな期間に、フランスには哲学の帝王が君臨していた。ミシェル・フーコーである。もちろん、帝王という用語には注意せねばならない。というのも、後世の歴史家に誤解を与えてはならないからだ。実際、フーコー本人が言っていたように、五月革命当時、一般にアクチュアルな議論として許容されていたのは、ライヒやマルクーゼといった、一種の疎外論である。フーコーの哲学は、あくまで、潜勢的なものにとどまっていた。だが、だからこそ、彼の哲学は革命を実現し、そして、その結果として、彼はアカデミー・フランセーズに君臨しえたのである。

革命の唯一の主体である民衆とは、つねに潜勢的(ヴァーチュアル)なものである。無名の民衆に固有名が与えられた瞬間に、民衆は民衆であることをやめ、革命は革命であることをやめる。つまり、歴史となる。革命は任意の固有名によってテクストのうちに封じ込められて矮小化し、たんなる権力闘争や嫌悪すべき暴力の歴史に変えられてしまう。固有名を与えられてアクチュアルとなった出来事は、じつはすでに死んでおり、要するに、それが歴史である。潜勢力として溢れんばかりの生を開放していた民衆は、墓に刻まれた銘となる。アクチュアリティとは、要するに、力が力としての自身を終えることである。フーコーは、そうした潜勢力としての民衆が唯一認めた死であり、その本質からして真の好ましい歴史家であった彼は、革命の最中に真っ先に死んだ男なのである。帝王とは、自身を民衆のうちに生成させるひとのことであり、彼は民衆として主体化する(野心的な多くのひとたちは、たとえばローマのマリウスのように、まちがって主体化ならぬ大衆化を遂げてしまう)。つまり、帝王とは、自身の主体を捨て去り、その代わりに民衆の意志をわが意志に転生させられる人間をいう。

そして、こうした一組の運動こそが、出来事の素粒子である《エノンセ》の真のはたらきである。エノンセは、波動であると同時に物質であり、たんなる観念ではない。「もっとも言表は、いつでもなにがしかの物質性を付与され、それはいつでも空間=時間的座標にしたがって位置づけられうるものであるが」(『知の考古学』)。フーコーは、自身のテクストのみならず、その活動のすべてが、エノンセのはたらきによって説明されることを欲している。エノンセは、はじめからテクストの外部にあり、その意味において、フーコーの活動は、歴史家ではなく、哲学者のそれなのである。

エノンセについての記述のなかで、もっとも美しいくだりだとぼくが思うのは、タイプライターの鍵盤によって、それを説明した箇所である。それは、他の箇所の高級さと比べれば、いわばB級映画のようなものだろうが、それでも、必要なものが、すべて揃っていると思う。

日本人であるわれわれになじみやすいように、AZERTといわずに、QWERTYと言おうか。読者がいま自分の前で目にしているキーボードをみてほしい。そこには、QWERTY(たていすかん)と書かれているはずだ。

これについて、まずはエノンセの議論とは対照的なテクスト主義者の議論を考えてみよう。彼らは、こう考える。それらの文字列は、現実のQ、W、E、R、T、Yという文字列からなるテクストだが、それらの鍵盤を打ったとして、本当に実態的に表示されるのかどうかは、証明されえない。”Q”と打ったとしても、”P”と表示してしまう壊れたキーボードがあるかもしれないからだ。したがって、真理として最大限言いうるのは、ひとつの鍵盤に”Q”と印字されているという当のそのことだけであり、われわれはテクストから出るべきではないのだ、と。現実にはQであるのかPであるのか証明されえないにもかかわらず、Q=Qという暗黙の前提のうえに積み重ねられてきた解釈を、Qの、そしてその他の文字列のもちうるわずかなエラーによって瓦解させること。それが、脱構築である。

フーコーはそんなことは気にしない。鍵盤に印字されたQWERTY、そんなものはエノンセではない、という。端的に、上記の可能性は、思考の外に放擲される。微に入り細を穿つテクスト主義者が好みそうなことだが、QWERTYという文字列自体に意味がない以上、PWERTYになろうがなんだろうが、その点は、いまのところどうでもいいことだからである。つまり、言葉の「意味」が重要なのではないし、またその「意味」を瓦解させることも重要なのではない。「意味」はこの際、どうでもよく、むしろ言葉が現実にはなにを生み出すのか、そのことのほうが問題なのである。

したがって、このキーボードの教則本(テクスト)に書かれたQWERTYが、このキーボードQWERTYとのあいだに持っている関係性において、テクストに書かれたQWERTYは、エノンセでありうる、と言われることになる。要するに、教則本のQWERTYには、ひとがそれをもとにして現実の鍵盤を指で叩いたという、わずかながらの出来事の煌きが封じ込められている。そのことにおいて、教則本のQWERTYは、エノンセなのである。

さて、じつは、鍵盤上のQWERTYもまた、エノンセでありうる。ためしに、エディターを開いて、Q、W、E、R、T、Yと打ち込んでみよう。おそらくほとんどの場合、鍵盤に書かれているとおりに、ディスプレイにそれらが表示されるはずだ。それが何を意味するかは、さしあたりどうでもよい。キーボードに印字されたQWERTYが、ディスプレイに表示されたQWERTYと関係をもっているかぎり、キーボードに印字されたQWERTYは、現実のQWERTYの、エノンセである。

クリュシッポスを再び召還しよう。彼はいう、「車と口にすると、口から車が飛び出す」。QWERTYと打ち込むと、QWERTYとディスプレイに表示される。つまり、これは《悲劇》として理解されねばならない。狼少年が、狼に喰われ、そして町の人間もまた狼に喰われた時、狼少年の言葉は、エノンセとなった。テクスト主義者にうそつきのレッテルを貼られた鍵盤たちは、必死で、自身をQやWやEといった文字列に生成させようとするのだ。ある実践の流れのなかに含み込まれないかぎり――つまり、Qと打ち込むかぎりでしかQであることができない彼らは、ぼくには、とても悲劇的な存在であるように思える。彼らは、自身に付与された潜勢的なQという力を、現実のQに生成させることによって、死ぬ。つまり歴史となる。主体化を遂げることで、彼らは死ぬと同時に生きた証を残すのだ。テクスト主義者が、彼がQかどうかは、証明されえない、などと言っているあいだに、Qは頭を紙に打ち付けて、Qに生成するのだ。

もうすこし説明を加えてみよう。たとえば、今日では、インターネットがあり、なんらかの文字列を検索する、という行為が一般化している。何らかの語を検索した時にあらわれる文字列は、その文字列が意味するもののエノンセではない。それこそが、フーコーがまっさきに遠ざける実証主義的な思考である。検索結果をただちにそれが表示する意味の言表だというフーコー研究者の意見をどこかで見かけたが、最悪だと思う。むしろ、検索エンジンの検索結果は、その文字列を検索したという行為の言表でしかない。つまり、それは、主体の行為のなかに収束してしまうのであり、この場合は、テクスト論でも対応可能な事態である。なんらかの文字列が、文字列を打つ行為に収束する場合は、テクスト論とエノンセ論のあいだに、差異が生じないことがありうる(この点からフーコーとデリダが混同されてしまう)。

だが、稀に、検索結果が、なんらかの出来事を招来させる場合がある。たとえば、“死”という文字列を検索したとしよう。検索者は、ただ、死がいかなるものなのか、死とはなにか、そうした情報を得ようとして検索したのだが、偶々、自身の死を宣告するような遺書を検索エンジンにひっかけてしまった場合、その瞬間にはじめて、検索結果は、死という出来事を招来させるエノンセとなる。つまり、検索した主体=重力に言葉が収束してテクストになるのではなく、主体を極端に離れて出来事に結びついてしまうような、《強い言葉》があるということだ。主体の意図としては、死とはなにか、その意味を調べようと思っただけなのだが、その意図にかかわらず、死という出来事をディスプレイの中に招来してしまったのである。こうした出来事に直接的に結びついた言葉は、テクストの外にある、エノンセである(だから、おいそれと“死”などという単語を検索するものではない)。この場合には、もはやテクスト論では説明不能であり、エノンセ論でしか対応できないのは明白すぎる事実である。なにしろ、S、H、Iという文字列は、その意志にかかわらず、テクストの外の“死”に生成してしまったのだから。

このとき、鍵盤たちの悲しみはいかばかりであろうか。だが、こうした悲劇を感じられるかどうか、それが、エノンセの概念を理解するための最大の鍵であると、ぼくは思う。

さて、日本の文学者の多くが、私小説を書いた。現実と虚構の境目で書かれた、私小説を、テクスト主義者は、認めない。テクスト外の現実を前提にしているからだ。戦後大挙して訪れたテクスト主義者の群れによって、私小説はほとんど絶滅してしまった。だが、私小説家は、テクスト論者ではなく、エノンセ主義者なのだ。私小説とは、まさに、言葉が出来事に生成する境界線上に位置する、エノンセなのである。歴史家として言わせてもらうが、たとえば田山花袋の『蒲団』における「横山芳子」ほど、現実の岡田美千代を生き生きと表現している資料は存在しないと、ぼくは考える。美人というよりは、その生き生きとした表情によって、田山花袋を魅了した岡田美千代の姿は、彼の言文一致体によって描かれることで、まさに、出来事に実現する――横山芳子の名は、岡田美千代の生のエノンセなのである。そこには、花袋でさえ自覚していなかった、そしてテクスト主義者が見向きもしなかった、《大逆》を可能にする革命的ななにものかがあったのである。……

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