このところ、何かがおかしいと感じている。何かが決定的に足りないと感じている。――足りないのは「わたし」というよりも、「世界」である。さらにいえば、「世界」というよりも、「わたしの思考する世界」である。蛮勇をふるって、さらなる厳密さを期して言うならば、「世界がわたしを思考させる、そのあり方」がおかしいのである。わたしの知っているあらゆる思考が、思考自身に対して、何かが足りないと言っているのである。
ネーションが、ある種の多様体であることを、わたしは理解しつつある。ネーション。それは、リーマンが初めて思考し、そしてフッサールが、さらにベルグソンが思考を付与したある《持続的な多様体》である。だから、ネーションとは何か、というヘーゲル流の科学的な問いは、意味をなさない。ドゥルーズやフーコーにならって、ネーションはいかに働いているのか、と問わねばならない。そう、ドゥルーズやフーコー、彼らは、ネーションの織りなす「世界」に対する決定的な一歩を踏み出したのである。
ネーションは、われわれが思っている以上に、世界についての思考である。たしかに、ネーションは、世界という語に対する国家的なものを指す言葉であるはずなのだが、にもかかわらず、けっして、一つの国家の内部に納まってしまうような特殊な思考ではない。そのことを初めて示したのは、ヘーゲルであり、ついでフッサールだが、世界についての思考であるにもかかわらず、それはひとつの世界を、すなわち、閉ざされた世界についての思考である。すなわち、開かれてありながら、その実、閉じている。しかし、実際には、ネーションが閉ざされた世界についての思考であると語るとき、すでにネーションを取り逃がしている。逆に、ネーションは、閉じていないと言ったとしても、ネーションを取り逃している。だから、ネーション以外の何かを考えようとしても、そうした思考が、ネーションを出ているとは言えない場合がほとんどなのである。おそらく、わたしは一歩もネーションを出ていない。
だが、そう言ったとき、ただちに思い当たるのは、すでに、われわれはネーションを飛び出しているのではないか、ということだ。否、飛び出してはいない。歴史は、つねに無意識という名の地下水路を走っている。そして、この地下水路から汚水をくみ上げ浄化する、その行為をも含めて、われわれはそれを総体として歴史と名付けている。われわれが口にするのは、いつも、多かれ少なかれ浄化された水だけであり、汚水をそのまま飲むことなどできはしない。浄化された神話のような水を口にしながら、われわれは、知らずナショナリストとなる。糞尿の混じった致死性の水を飲むことなど、できはしない。本当の歴史家は、多かれ少なかれ、スカトロジストであり、あるいはいつもクズを拾って歩く物乞いである。彼らはネーションを身をもって体験しており、しかも同時に、ネーションの外に飛び出している。歴史家を忘却の彼方へと押しやることで、ネーションから飛び出した気になっている者がいるとしたら、しあわせなことだと思う。だが、そのとき、彼は確実にナショナリストの顔貌をまとう。ひっそりと、自分でも気づかぬうちに。――そうだろうか? もうネーションなど古びた思考なのだろうか? だとしたら、そのとき、歴史はどうなるのだろう?
歴史学の歴史などたかがしれている。こんなもの、なくなってしまったところで、どうというのか? 誰も歴史など知らなくていい。忘却は、それはすばらしいものだ。それは、人間が生きていくために必要な力だ。忘却の力がなければ、人はおそらく、爆発してしまう。だが、にもかかわらず、あるいは、そうであるがゆえにこそ、歴史家は必要である。歴史がなければ、われわれは存在していたなどと言えるのだろうか? こうして、歴史家は、せっせと、自分の城を、すなわち、ネーションを、せっせと作り上げる。彼は言う、文字、それは何とすばらしいのか、と。文字の資本論。文字に自分を焼きつけ、わたしは文字となる。書くという倒錯した行為に塗れながら、すなわち、死につづけながら、そのことではじめて、わたしは人間になる。
――たしかに、わたしは、マルクスやニーチェ、フーコーやドゥルーズの言おうとしていたことを、まだ、千分の一も理解していない。否、自分で理解していないと思っている以上に、もっと理解していない。プルーストや志賀直哉、ジョイスや室生犀星が知っていたことを、わたしは何も知らない。彼らが何か知っていたのかどうかさえ、何も知らない。走り出した列車に乗っている自分を妻が追いかけ、その足を列車にかけたとき、きみはそんな妻を突き飛ばせるだろうか? ネーションがある特別な多様体であることを理解したところで、それでどうなるというのだ。そこから出られなどしないということを知っただけではないか。つまらない思考だ。こんなものが何の役に立つというのか? 役になど立たない。立つわけがない。最初から、役に立たない代物だ。役に立たないからこそ、クズなのだ。最初から、それがクズであるとわかっていたはずではないか?
なにかが足りない。わたしはどこかで間違っている。外に出なければならない。外の空気を吸わねばならない。