基地はいらない!

criticism
2010.05.24

ニューヨーク・タイムズは、5月23日付けの記事、“Japan Relents on U.S. Base on Okinawa”のなかで、「オバマ米政権の勝利であり、鳩山首相にとっては屈辱的な後退a victory for the Obama administration and a humiliating setback for Mr. Hatoyama」と伝えている。とはいえ、おそらく日本のメディアにも旧政権に所属する官僚たちにも、敗北感などないだろう。アメリカの“victory”こそ、自分たちの勝利だからだ。

いまは怒りを覚えている沖縄のひとたちも、本土メディアの鳩山バッシングとは一線を画したいと思っているかもしれない。外野から他人事のように鳩山首相を非難する様は、むなしさを通り越して奇怪なものをみる気分になる。現状を肯定するばかりでなにもしていない連中が、できもしないことをやるな、などという批判が正しいとは全然思わない。やり方がまずかったとも思わない。たんにメディアが足を引っ張り続けたということであり、必要な支持が足りなかったということである。また民衆に基地反対の火をつけたという点で、役割は果たしている(首相の言葉が軽いというひとがいるかもしれないが、政治家の言葉が善き意志で貫かれているかぎりは、即座に言ったことが実現しなくても充分に重みを持つし、途上での狡猾さはあってしかるべきものだ)。

本来は在野の知識人がやらねばならないことを、一国の首相がやったと思えばいい。アメリカという巨大な覇権国家からみれば、日本の首相は残念ながらポジション的にはほとんど在野に等しい。そしてにもかかわらず首相であるということが彼の足かせになっていたのであり、短絡的に「日本に基地はいらない」と大統領に投げればそれでいい、などとはとうてい言えない(戦前の日本は国連でも国際会議でも自分の主張だけしかしなかった)。首相には、基地反対の民意を受けつつも――支持率をみるかぎり、それが民意かどうかはわからないが――、最終的には大統領とは仲良くやってもらわねばならない。それが外交というものだ。基地を動かすことができるのは、本質的には民衆だけであると思う。「基地はいらない」というメッセージは、首相のものではなく、端的に民衆のものであるはずだ。本土の人間は、最初に政治家にそれを言わせてしまったことを恥じなければならない。

アメリカの軍産複合体は、冷戦期に肥大化したものだ。軍隊には敵が要る。冷戦期の敵はもちろんソ連だった。しかし、この終わりのない軍拡ゲームから、ゴルバチョフは一方的に降りてしまった。別に積極的にレーガンやブッシュシニアが勝ったわけではない――つまり、アメリカには、勝利とひきかえに消費されるはずだった兵器や世界中の基地が、山のように残されることになった。当然、軍隊には敵が要る。この邪悪な山は、己を標的にせざるを得なくなる。というのもアメリカが、世界を制覇してしまったからだ。かくして戦争はもはや終わることのない奇怪な円環を描く。敵はテロリスト(テロ国家)であるという。だが、テロリストを生産しているのは、あるいはすくなくとも必要としているのは、ほかならぬアメリカである。彼らは、自分たちを守る兵器と同時に兵器を使用する対象をも生産する、自家中毒的なグローバル企業である。

冷戦後、その根拠を失った海外基地を維持するのは容易ではなかったはずだが、どこに潜んでいるかわからぬテロリストを対象として基地の根拠は暗黙のうちに書き換えられた。テロリストが相手である以上、古い意味での「抑止力」はもはや空文化している。不可視の敵を相手にする以上、敵の殲滅は戦争の終結を意味しない。テロリストは世界中に分散している。地球という球体の上に存在する基地は、任意の場所にあっていいはずだが、そうである以上、もっぱら経済的な理由から、動かす理由はもっと存在しない。ただそこにあるという、そのことだけが、じつは、たとえば沖縄に基地があるもっとも説得的な理由なのである。

沖縄に基地があるという前提で作られた数多くの兵器があり、産業があり、官僚がいて、そして権利がある。もはや国家がこれを動かすことはできない。国家が基地の場所を決めるのではない。世界中に張り巡らされた基地の上に国家が乗っかっている。べつにアメリカだけが利権に預かっているわけではない。セミラティス状に広がった利権の網の目には、ユダヤ人というかイスラエルはもちろん、日本の古い権力者も与っている。世界大に広がった利権の網の目、すなわちセミラティス、これをネグリ&ハートの言葉で《帝国》という。

わたしは彼らの論文が公表された当初、この議論に懐疑的だった。だが、ここ何年かはことさら否定する必要を感じていない。ここでは、彼らの議論に沿って話を進めていこう。さて、《帝国》は、冷戦の終わり――資本主義のグローバル化によって現われた新たな局面である。かつて帝国主義時代には、資本主義は国家と手を取り合っていた。というのも、国家間戦争がなければ、自らの領域を広げる外部を保つことができなかったからだ。だが、資本主義のグローバル化は、国家との結託を不要のものとした。むしろ国家のほうが、資本主義に包摂され、これに依存することになる。こうしてできる世界大の利益共同体が《帝国》である。日本はアメリカの植民地だとか、隷属しているだとか、そういう短絡的な見方はここではできない。国家間関係は、固有の領土に立脚した政治的なものというよりは、もっと微妙に変化するグローバル経済の上〈のみ〉に成り立っている。地球上のどこかで剰余価値が発生すれば、そこを中心にして、帝国が何度でも編成される。その編成のプロセスのなかで、日本がアメリカの植民地のように見えることもあれば、同じ日本がアメリカの片棒をかつぐ帝国主義者のようにみえることもあるし、たんに日本が帝国主義者としてふるまうこともある。ここでは、主体は端的に国家ではないし、主権国家という観点はじつはほとんど成立しがたい。強いて主体をあげるなら、不可視のセミラティスである《帝国》、というほかない。ともあれ、その編成から漏れたひとたちはテロリストになるほかないところまで追いつめられ、剰余価値を生み出すための差異を無理矢理演じさせられる。テロリストは暴力を振るう。なんというならず者たちか。われわれは、これに千倍する暴力で答えなければならない。たった一発の手榴弾が、千発の劣化ウラン弾に変わる。千発の劣化ウラン弾が十発の手榴弾に変われば、今度は一万発の劣化ウラン弾が生まれる。これを価値増殖といわずしてなんといおう。……

冷戦時代に作られたアメリカの基地が、《帝国》に利用されている。基地があるかぎり、敵から日本は守られるかもしれない。それは古い抑止力とは関係ない。基地があるというそのことが、《帝国》の攻撃対象から外されることを意味するからだ。しかし、日本を攻撃する敵とは、一体誰のことなのだろうか? 中国ではない。中国政府は、《帝国》内部に組み込まれている。というより、現在の《帝国》の中心は経済的にはほとんど中国に移行しつつあるといっていいほどだ。だから、やはり、基地があるかぎり、そこが中国の攻撃対象となることはない。基地がある以上、中国にいる《帝国》の住人は、そこを自領とみなす。海外基地とは、《帝国》のシンボルであり、「降伏証明」である。これが「抑止力」という言葉の真の意味だ。つまり、不思議なことに、この「抑止力」には対象となる国家が存在しない。つまり、《帝国》のなかに、敵はいない。しかし、《帝国》は、この「抑止力」によって、目に見えないテロリストを生産する。敵がいない? そのとおり、彼らは見えない敵なのだ……。これは黒魔術の言葉――自分自身の尻尾を飲み込むウロボロスである。「抑止力」は、イラクへ、あるいはアフガンへと飛び立ち、いまも民間人を殺し続けている。民間人の憎悪にまみれながら、兵士たちはおそらく薄々感づいている。この戦いは、ますますテロリストを生産するために行われているのではないか。……

こうした奇怪な円環は、われわれを身動きできないところへと追い込んでいく。オバマ政権が軍産複合体に仕掛けた戦いは劣勢が伝えられている。オバマは鳩山由紀夫と同じく、軍縮を志向するタイプである。だが、それでも基地を動かすことはできない。世界中に張り巡らされた《帝国》の力が、彼らの道行きを阻んでいる。そればかりか、彼らが動けば動くほど、彼らの自由はいよいよ狭まっていく。軍隊の縮小を全体として実現するためには、この基地は必要だと、すべての基地が主張する。軍縮したつもりが、すこしも縮小されない。多くの大統領が戦争を経験してきた。だのに臆病なお前は逃げることしかしない……。《帝国》はますますその力を強めていく。肥大化する《帝国》に追従する新自由主義者たちは、その求めに従って、国家を小さくした。できるかぎり自分を小さくして《帝国》の流れに身を任せた方が、国家は生き残ることができると考えたからだ。だが、それは、《帝国》の力に国家が飲み込まれてしまったことを肯定する身振りでしかない。国家はますます《帝国》の尖兵になり下がっていった。だからといって、《帝国》に反対して国家の力を強くしたとしても、勝つのは容易ではない。国家は、《帝国》の要請に応じて形を変えなければ生きていけないほどに、変質させられてしまった。それほどまでに、手に負えないものになったのだ(強い国家ほど、国連を必要とするのはそのせいだ)。

こうして世界は文字通り閉塞していく。だが、ネグリとハートによるなら、《帝国》と直接対峙する勢力があるという。マルチチュード(群衆)である。《帝国》は巨大であるがゆえに不可視である。テロリストは微細であるがゆえに不可視なのだが、不可視であるという点で、《帝国》の主要なパーツである。しかし、マルチチュードには、どうやらそれが全部見えているらしい。生活の瞬間瞬間に、《帝国》がふるう暴力が、見えるというのだ。彼らは戦うべき本当の敵がどこにいるのかを知っていて、ゆくりなくつぶやくだろう――基地はいらない……!

軍縮のための確実な一歩は、武器を減らすことではなく、軍隊が駐屯する世界中の基地をひとつひとつつぶしていくことであろう。理論的には、それ以外に恒久的に軍縮を進める道はない。いまや兵器の生産がアメリカや中国(《帝国》)の内政上の問題である以上、政権が変わればたちどころに兵器の大量生産が可能だからだ。

おそらく、真の敵は基地なのではなかろうか。世界中に基地があるからこそ、アメリカは諸外国と戦争するし、テロリストが生産されつづけるのではなかろうか。《帝国》はリゾームではない。セミラティスである。なぜなら、どうしても動かせない基地があるからだ。《帝国》は、どこにでも動けるかのように偽装しているが、爆撃機が飛び立つための何千メートルもの滑走路は必要なのだ。だから、《帝国》がもっとも恐れているのは、基地こそが戦争の元凶であることに気づいている周辺の生活者が声を上げることなのではなかろうか。先にも述べたように、《帝国》が世界大に広がっているなら、基地は任意の場所でよいはずだ。だが、そうなっていない。というのも、冷戦時代の遺物たる基地がそこにあったからだ。ただそこにあるという、それだけが基地のもっとも強固な存在理由である。この理由に論理的に反論するのは困難である。というのも、論理的な理由ではなく、多分に情緒的なものだからだ。したがって、国家首脳レヴェルの外交上の課題ではない。この理由なき常駐に対する唯一の方策は、論理的なやりとりではなく、民衆の声で応じることである。声に声をかさね、軍隊、あるいは《帝国》の暴力とは別種の《力》でこれに応えることである。

さて、時間が足りない。ここで考察は一方的に断ち切られるが、ともあれ《帝国》と対峙しているのはマルチチュードである。しかし、マルチチュードになるのは容易ではない。ほとんどの場合、われわれは、知らないうちに《帝国》に加担している。おそらく、声をあげるひとたち、それも声をあげつづけるひとたちだけが、マルチチュードになることができる。しかし、やはり、声をあげるのは容易ではないし、ひとりひとりの声は小さい。われわれは、はたして《帝国》側の住人なのか、マルチチュードの側の住人なのか。自分自身ではなかなか判断することができない。とはいえ、すくなくとも確かなことは、《帝国》と対峙する主体となれるのはマルチチュードだけ――つまり政府はあくまで副次的な存在である、ということだ。

政府には果たしてもらわねばならない役割がある。だが、彼らに頼りすぎるのはよくない。もともと政府には基地を動かすほどの力はないからだ。だから、基地を動かそうと試みた稀な政府を責めるのは筋違いである。われわれは、政府でさえ、味方につけなければならない。アメリカや官僚、ジャーナリストやアカデミシャン、そして兵士たちのなかにさえ存在するマルチチュードを見つけ出し、仲間に加えなければならない。現政権には、オバマ政権とともにまだまだ仕事をさせるべきだが、究極的には、基地を動かすのは民衆、それもマス化していないマルチチュードである。

自分たちにしか、基地を動かすことはできないのだと知っている民衆は、マルチチュードになる準備ができている。勇敢な沖縄のひとたちはマルチチュードになりつつあるようにみえる。本土の人間も、うかうかしていられない。まだチャンスはつづいている。諦める必要はまったくない。基地がそこにあるべき理由は存在しない――この勝負には、勝ち目がある。

1 Comment

  • 岩下雅裕

    2010年7月12日(月) at 19:59:26 [E-MAIL] _

    たまたま検索の途中でこの文章に行き合ったのですが、たいへん参考になりました。
    72年いらい続いている立川自衛隊監視テント村という団体のメンバーです。
    基地・天皇制・労働運動などが主な課題です。しばらく前までは「反戦ビラ弾圧事件」で多忙でした。
    基地について軍事同盟・共同作戦体制の「実体」「結節点」といった言葉で表現してきましたが、基地のの意味と、撤去闘争の意味について新しい視点を得ることができました。
    グローバルな支配体制についての私の意見ついては、よろしければBlogをのぞいてみてください。
    ところで田中さんは、大学の教師なのですか?

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