マスメディアのあいだであふれている言葉が、ほとんどすべてリプレゼンテーションであることは容易に察しがつく。彼らには、ほんとうにいいたいことは別にあって、ずっと「意味」を隠しているのだ。デリダがいうように、この種の言葉は、現実とは無関係だ。だが、彼らをつうじて伝えられる言葉のなかにも、まれに強いものがある。しっかりと現実を掴んでいて、言葉そのものが真理の無限の運動のなかに参与している。偶然にか、それとも意図してか、それはこの際問わないでおこう。そういう言葉だけが、歴史になるのだし、また歴史家は、まちがってリプレゼンテーションを選んでしまわないよう、注意深く、言葉に耳を傾けている。たとえばフーコーは、そういう言葉をエノンセと言った。デリダがついに概念化できなかったものだ。わたしはフーコーのこの概念が好きだ。ディスクールについて語っているときでも、彼はじつは、つねにこの概念に照準をあわせていたし、その点では、彼は死ぬまで変わっていない。わたしなら、こういう言葉の学を、《文学》と呼ぶ。わたしはずっと、《文学》にだけかかわっていたいと思う。
マスメディアは、言葉をリプレゼンテーションとして用いる。本当に乱暴なやり方で、彼らは、マスを「代表」して語る。そして暗にこう語る。言葉は現実とは結びついていない、と。わたしはこれほど有害なものはないと思う。《文学》を愛するわたしにとって、彼らはこれ以上ないほどに敵である。かつて文学者たちが語った言葉は、たしかに現実と結びついていた。彼らはジャーナリズムのなかでかき消されるかにみえた声を、ひそかに紡いでいた。それをわたしの耳はちゃんと聞いた。現実をしっかりと掴んでいるような、そんな強い言葉があることを、わたしは彼らから教わった。彼らのおかげで、わたしはまた現実の世界に戻ってくることができたのだ。
疑うのは大事なことだ。しかし、その一方で、信じる必要もある。ジャーナリズムが暴くのは嘘であり、彼らはすべてを嘘に見せることにかけて、きわめて巧みに振る舞う。しまいには、彼らは、自分の使っている言葉でさえ、嘘であると言い始める。そうすることで、彼らは、なんの苦労もせずに、嘘を暴くことができる。なぜなら、言葉そのものが、嘘だからだ。だが、そういう思考については、わたしはもうニーチェのように「噛み切れ!」というしかない。本当にどうでもいいことだ。わたしは、彼らが世界を疑えば疑うほどに、信用していく。言葉を軽視すればするほどに、わたしの手のなかでたしかなものになる。言葉には重さがあり、固さがある。軽さといってもいいし、しなやかさといってもいいが、そういう風にいうと、質量がないと誤解されてしまう。実際、多くのひとは言葉は「もの」とは違うと考えている。だが、重さというにせよ、軽さというにせよ、とにかく質量があって、世界は言葉が生まれでる卵のようなものなのだ。言葉は物体ではなかったかもしれない。だが、言葉が出来事である可能性は、まだほとんど手つかずのまま、残されている。
この喧噪、この怒号、この罵声のさなかにあって、かき消されまいとする懸命なささやきに、沈黙を破る勇敢な歌声に、不意にこぼれ出る真実のつぶやきに、歴史家はいつも耳をすましている。かつて若きヘシオドスは、ムーサに名を借りてこう歌った。
野山に暮らす羊飼いたちよ
卑しく哀れなものたちよ
喰いの腹しかもたぬ者らよ私たちは
たくさんの真実に似た虚偽を話すことができます
けれども
私たちは
その気になれば
真実を宣べることもできるのです『神統記』廣川洋一訳、岩波文庫
真実を覆い隠すリプレゼンテーションをかき分けて、歴史家はむき出しの言葉を、すなわち文学を探している。そこに文学があるかぎり、言葉は真実であることをやめない。だから歴史家には、いつでも、文学のあるところへ飛んでいく用意がある。文学のあるところが、ひとの永遠の住処だ。結局ひとは、そのようにしか生きられない。ひとの行うべきただひとつの仕事は、嘘の海のなかから《言葉》だけを選び出し、それをきちんと子供たちに伝えることだ。わたしたちは、それを世界史と呼ぶ。どうあがいても、世界史はそのようにしてしか語り継ぐことができない。
◆
なにが言いたいのか? わたしは基地問題にかんして、鳩山首相にエールを送っているのだ。知識人としてはナイーヴすぎるかもしれない。だが、語る言葉をもっているにもかかわらず、高みの見物を決め込んでいるのがもう嫌になった。言葉の専門家として、わたしはまだ期待している。あきらめるなといいたい。