声と文字

philosophy
2005.09.07

一度にたくさんのことを言ったり書いたりすることはできない。こうして、ひとは、時間や空間の存在することを知るのだが、ともかく、この時間や空間のせいで、たくさんのことを語り残した。思えば、かつてわたしのものだった言葉から、ひとつではない、多くのさまざまな線を引くことができたはずだ。とくに文字には、外に向かって発散する線を描く権利がある。文字は、声のように内に向かって収束したりしない。過去に書かれた文字のひとつひとつから、外に向かって、時間を横切り、空間を裁断する無限に伸びる線を見つけることができるだろう。なにしろ、文字が書かれた瞬間のことを、わたしはもう忘れているから。刹那の桎梏は文字とは無縁なのだ。書かれた瞬間が文字に背負わせたはずの運命を、忘却だけを残して、文字はいとも簡単にすり抜けていく。今のわたしに残っているのは忘却だけで、だから、あのときのことをもたらした運命のことはもうはっきりとは覚えていない。忘却がもたらす無数の線は、いったい、わたしたちを、どこへ連れて行ってくれるのだろうか。どこへ? 未来へ。……。

そんなに性急に未来について考えるのはよそう。性急さと文字とは、似ても似つかない。声にこそふさわしい性急さで文字のことを考えるのはよそう。なにしろ、文字は、ひとが生み出したものの中でもっとも遅いものなのだから。せっかちなのは、わたしのよくない癖だ。今考えなくてはいけないのは、声と文字のこと、動物(1)と人間のことだ。声と文字とが違っていることは、動物と人間とが違っていることと、よく似ているように思う。声は“わたし”に結び付けられ、“わたし”を可能にすると同時に、声が発せられる前にはいまだ存在していなかった記憶に力をもたらした。文字は“わたし”から切り離されるかわりに忘却に力を与え、記憶の呪縛からひとを解き放った。こうした違いは、動物と人間の違いによく似ている――逆に言えば、声と文字とは、動物と人間とが違っている程度しか、違っていない。

だが、ここではひとまず、この違いを強調する形で話を進めていこう。声と文字は、何が違うのか。

声は……消え去るものである。そして、文字は簡単に消え去ることができない。このことをもう少し細かく言おう。声は、《過去》へと流れ去っていくかぎり、ほとんど時間の推移そのものである。文字は時間の推移に抵抗し、《現在》に定着しつづける。まるで、文字こそが《現在》だと言わんばかりに。したがって、さしあたり、声と文字との差異を、時間的な問題として見ることができるだろう。先にわたしは声と文字とがまったく別の方向を向いていると言った。すなわち、記憶と忘却という別の世界を向いていると。だが、にもかかわらず、この差異をひとつの程度(強度)に還元できる。つまり、時間に対する抵抗力の強さである。声は早く、文字は遅いのだ。声と文字とがもっているこの速度にかんする差異が質的な差異にまで到達するのは、文字に、書き手の死後も抵抗力が残る場合である。すなわち、文字に生じた、不在の存在というべき奇怪な事態が、声と文字に、決定的な差異の刻印をきざむのである。このときこそ、声と文字は、別々の方向を向いた別様の力となる。ひとつは相変わらず記憶の世界に、もう一方は忘却の世界へと、足を踏み入れるのである。動物の取る手段に、とりわけ犬に見られるマーキングがあるが、これはたしかに文字に近い。にもかかわらず、これが文字たりえないのは、死後も残りうるほどの抵抗力がないからである。だから、声と文字のあいだに質的差異を付与するのは、人間の死にほかならない。逆に言えば、人間は、生きているかぎり、動物とのあいだに質的な差異を付与することはけっしてできない。また、死が人間に与えてくれる質的差異にしても、文字がもっている時間に対する抵抗力が持続するかぎりにおいてでしかない。かくして、人間がとりわけ《歴史》を必要とする理由がわかる。それは、人間が他の動物との差異を強調しようとするからであり、人間はそれを望むあまり、《歴史》のために死のうとすらするのである。そして、死をもって実現されるこの《歴史》という概念は、文字が文字であるかぎり、不可避的思考たりつづける。

【註】

  • (1) あとで見るように、そしてかつてハイデガーが逆説的な形で指摘していたように、動物が、究極的に人間の言葉を理解しないという点でしか特徴づけられないとすれば、動物は、ある意味で外国人と呼ばれても差し支えなく、ここでの“動物”なる語は、もちろん、“外国人”に差し替え可能である。

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