夢について

diary
2012.10.10

新中納言、「見べき程の事は見つ、今は自害せん。」とて、乳人子の伊賀の平内左衛門家長を召て「いかに日比の約束は違まじきか。」と宣へば「子細には及候。」と申す。中納言に鎧二領著せ奉り、我身も鎧二領著て、手を取組で海へぞ入にける。(内侍所都入)

言葉にふれて、そこから得られるなんらかの印象を現実的なものとして心の底から信じられること、それ自体、世界が信用に足ることの証である。

これほど世の中がひどくなり、一方でそれでも世界がすばらしいと思えるのは、現代にも歴史や未来があるからではないかと思う。歴史家にとっては、歴史もまた未知の領域で、だから過去の探究とはいえ、未来に進むことと同義である。たとえばイリアスや平家を読めば、ああ、やはり世界は素晴らしいと思える。

記憶の果てしない旅が、未来に進むことであると感じられるような、そんな幸福な時間概念の到来——それはベンヤミンのいうメシア的な時間——を、ずっと待っている。「時よ止まれ、汝はあまりに美しい」、とはファウストの弁。時間とは不思議なものだ。

ドゥルーズの夢をみた。彼と風呂に入るのだが、肺のところが機械になっていて、そして湯船につかりながら、窓の外の馬をとても上手に怒らせるのだ。あげくのはてに馬が怒って窓ガラスを割ると、もうドゥルーズはいなくなっていた。

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