大洋、死者の大地

criticism diary
2021.07.31

『存在の歴史学』の「あとがき」では別のことを書いたのだが、執筆中に考えていたのは、居場所のない、現代の若者たちのことである。いまはとにかく、海が見たい。それから、北村透谷の墓参りに行きたい。

居場所のない現代の若者を勇気づけたかった。だから、居場所を与えられなかった者たちの歴史を書こうと思った。すなわち、近代の武士たちである。

藩閥政府に身を置くことのできたわずかな例外を除いて、近代の列島に、武士に身の置き所はなかった。彼らは「野」にあって、自由民権運動の闘士として居場所を求めた。やがて民権家が用済みとなれば、元武士たちは、かたや「列島の外」で——大陸浪人の場合——、かたや「精神の内部」で——文士の場合——、あるかなきか、あやふやな《存在》を、あやふやなまま誇示した。彼らは有無のあわいをさまよいながら、にもかかわらず、きわめつけの存在者だった。自分にはそのように思えた。

居場所なしにも、ひとは存在可能である。つまり『存在の歴史学』は、存在に時空間規定が先立つといったカントに対する、反論の書である。居場所のない彼らであっても、じつは、規定されえぬ「大地」は与えられる。「大地」は、居場所を与えられなかった者の場所なのである。

また、死者にも「大地」は与えられる。「大洋」という名の「大地」が。われわれ日本人にとって、海は、死者のための大地である。

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