オリンピックにかかわって、小山田圭吾氏の「イジメ」をめぐる問題について、しばらく考えていた。結論は決まっている。開会式の音楽担当を辞退するほかない〔注、このエッセイを書いたのち、実際に辞退している〕。作家の人格と作品とは別のもの、ということには全然ならない。それをいうなら、作品とオリンピックとのほうが別のものであって、催しから作品が排除されても、作品がなくなるわけではない。坂本龍一らとの活動を通じて自分も彼の音を多少は聴いているはずだが、記憶はないし、名前くらいしか知らない。ともあれ、アートは、作家と作品とともにあり、それから、もっと美しいものだ。
アングラで活動してきた人間(アングラでもないらしい)が、国家主義的な催しに音楽を提供することより、彼が実践した40年前の非人間的な行動を知り、憤った民衆が彼をその場から引き摺り下ろすことの方が、はるかにアートである。アートは、彼を救う。彼を国家主義的な場所から引き離すことによって。
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アートは攻撃的なものだが、それは強い者を護らなければならないからである。強い者、それは、精神にも及ぶ苛烈な仕打ちを受けてなお生きている、虐げられた孤独な者たちのことである。束になってかかってくる弱者の、そのまた束である国家と戦うために、アートは貢献するのでなければならない。
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「イジメ」を受ける人間はいつも孤独である。だが、彼がそこから抜け出せないのは、やはり孤独を恐れるからである。いじめる者といじめられる者の関係であっても、関係にはちがいなく、孤独よりもマシだと思うのだ。そんな孤独な者に、アートは勇気を与えるものだ。だから彼もいまこそ一人になって、国家主義的な催しから手を引くといい。そのときはじめて、アートは彼を助けてくれるだろう。
簡単に言えば、何が、一番革命的か、である。サブカルチャーが国家主義に貢献することは、その内実がいかなるものかはともかく、原理的には、サブカルチャーなる概念の裏切りであって(といっても、カルチャーはもともと国家主義に貢献するもの、ということもできる)、それよりは国家主義もろとも高みにいる虐めた者に、民衆が低いところから石を投げている状況の方が、アート、というかサブカルチャーに近いわけだ。
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「イジメ」と国家主義の結合がアートの名で許されるなら、アートの濫用というより、アートの失効である。自分はそれを心配しているが、その一方で、東浩紀のような社会学者や、その他芸能人のする、民衆暴力を一方に措定する、天秤を振り回すおなじみの擁護は、自分はまったく受け付けない。というより、その態度は、火に油を注ぐことだ。「イジメ」に対しては、中立を気取る者が一番性質が悪く、権威と卑劣とに民衆が立ち上がった現状に対して、いまはまだその種の口を挟むべきではない。
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アイスキュロスの『オレステイア』はそれは恐ろしい復讐劇だが、今まで、その意味がわかっていなかった。なぜこれが傑作か、おぼろげながらわかりかけている。交換経済ではなく、復讐経済というものがある。社会は前者だが、歴史は後者だ。アキレウスの怒り、オレステスの狂気、いずれも歴史に属す。
目には目を、歯には歯を、といった交換の論理ではすまない復讐の論理がある。片目に対しては両目を、一本の歯に対してはすべての歯を望むような、そうした論理である。これは不条理だが、神はこの不条理を許すことがある。というよりも、オレステスの天を衝く復讐心に、神が折れるのだ。この許しにより、オレステスは狂気を克服し、復讐すべきすべての対象を殺害して王となる。やはり、神はこれを許す。
計算の得意な社会学者は中立を決め込むか、あるいは等価交換を持ち出して一方を擁護しようとするが、それらはすべて的外れであり、意図はどうあれ、「イジメ」を受けた者が感じている絶対的な負債を黙殺する悪質なものだ。天秤を持ち出すことが、卑劣なのである。芸術は、復讐者を擁護する。不条理の裁きの名のもとに。
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シェークスピアには『タイタス・アンドロニカス』というこれまた凄絶な、救いのない復讐劇がある。強姦され、口封じに舌と両手を切断された将軍タイタスの娘ラヴィニアは、交換を許さぬ絶対的負債を負う。聴衆は、その絶対に等しい擁護でもって、彼女に応えるだろう。
言葉を持たない者が負わされる虐待、これは交換不能の絶対的な経験である。どれほどさかしらな知識人が天秤を持ち出そうと、ここにおいて天秤は成り立たない。虐げられる者は、いつも、虐げる者よりも、言葉を持たない。だから結局、天秤を持つ者は、いつも虐げる者の味方しかできないのである。
社会学者や芸能人の擁護が火にかえって油を注ぐのは、彼らがあいもかわらず、あの「イジメ」が、交換可能な経験、足して二で割れば一になるようなものとしてしかみていないからである。かつての「イジメ」と今度の非難の嵐とを同列にみる合理的計算が、ひとを怒らせている。
彼らのする公共的計算は、日常的には正しいかもしれないが、言葉を持った者が、持たない者におこなう虐待は、何重もの意味で、絶対的なものだ。あまりの汚辱のために、被害者さえ被害を口にすることができないような虐待をおこなえば、簡単にその口を封じたうえで虐待を重ねることができる。それは、口を封じられたラヴィニアに対する何重もの強姦に等しい卑劣であって、この現代のラヴィニアたちは、いまにいたるも、救いを求めて手を上げることも、声をあげることもできなかったのである。「イジメ」に「イジメ」で返すのはよくないといってみたり、あるいは「時代精神」を持ち出して卑劣を緩めてみたり、といった、おなじみの交換や弁証法は、成り立たない。この圧倒的な非対称性は、弁証法的な言葉を弄するだけでは、解消されえない。
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強姦されたあげく舌と両手を切断されたラヴィニアは、それでも口にした杖で、犯人の名を父タイタスに知らせるだろう。ラヴィニアの、舌のない口が語った言葉こそ、ほんとうの文学である。つまり公共的計算の外側に、いいかえれば弁証法的な言葉の外に、虐げられた者の文学がある。
芸術は、こうして、本質的に、失語症を患った者の言葉である。
芸術は、公共的秩序の維持に貢献する商品などではけっしてなく、むしろ言葉を持たない者の言葉、言葉を持たざる者の伴侶であり、舌先で言葉を弄ぶ者たちのつくる公共性の外側で響いているもの、端的にいえば革命を擁護するものである。悪事を壁に塗り込めるための弁論術とは、まるで異なるものだ。
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