《関係》は切断したり、接続したりできる。だが、切断するだけで関係から逃れられると考えるのはまちがっている。接続や切断自体、きわめて情報工学的な、関係概念に包摂されるものである。こうした接続や切断が哲学であるためには、《関係》なる観念を塗り替える概念を提示できた場合にかぎられる。接続や切断の概念は、そのときどきで必要な、つまりジャーナリスティックな、あるいは社会学的な意味をもつことはありえても、人文学的な意味をもつことはほとんどない。
関係の対義語は存在である。どちらかといえば、わたしは存在の概念にやや同情しているといえる。だがそれは、存在が《孤独》に近しいかぎりにおいてである。むしろ歴史家は、関係や存在とは重ならない、両者の《あいだ》で考えている。存在にかえて孤独を、関係にかえて生成変化、である。《あいだ》で思考するというのは、孤独から生成変化にいたる流れのただなかで思考することである。
孤独な諸存在者の森のなかで、独身者は生きている。真に孤独な者にとって、他者と隣接領域/友愛の平面を共有することは、たんに関係を取り結ぶ(接続する)のではなく、生成変化のただなかにおのれの存在を丸ごと晒すことだ。関係においては、接続しようと切断しようと、存在者の全体は温存される。存在者であることを逃れた孤独な者にとって、他者との接触はおのれを変化させずにはおかないのであり、出会いとは、その変化それ自体のことなのである。
友人たちの真っただなかで、ひとは孤独を感じることがある。それは、友愛の平面においておのれを変化させることを恐れ、おのれの存在を温存しようとするときに、そう感じる。しかしそれは真の孤独とはいえない。むしろ関係の概念に囚われているのである。
彼が求めているのは、自分の存在を温存したままでいられる都合の良い友人であって、さらにいえば友人でさえなく、潜在的には不特定の関係を求めているだけなのである。この場合、変化の力能は放棄されているといってよく、彼が変わるチャンスは、関係の内部で感染する場合、影響される場合にかぎられてしまう。
ところで、歴史家に思考可能な《関係》とはなんだろうか。それは、「感染」と「影響」とである。つまり、存在に「孤独」という現象を認めるように、関係にも「感染」と「影響」という現象を認めようというわけだ。不動であることが前提の《存在》や、諸存在を温存したまま複数化する《関係》は、歴史家にとっては、どこまでも観念論である。現実的には、関係とみなされるもののあいだには、自ら変化する力を奪われた権力=隷属的な非対称性が備わっているのである。
二つの性から《関係》を二つの極に特徴付けることができる。つまり《目標》と《関係》である。男の性は超越的な《目標》に、女の性は水平的な《関係》に囚われているのである。しかし、真の孤独者に必要なのは、目標や関係にかえて、生成変化の力を取り戻すことだ。われわれは他者のただなかで、生成変化の力を奪還せねばならないのであり、しかもそのとき、ひとは孤独と友愛とを同時に手にすることができる。
感染すること、影響されることを恐れてはならない。それは自ら変化する力を取り戻す準備体操のようなものだ。実際、変化の真っただなかにいる《子供》には、そうした能力がありあまるほどある。われわれが恐れるべきは、感染させること、影響することであり、しかもそれを関係にまで硬直させることである。
感染すること、影響されることを恐れるなら、孤独は孤立に、そしてますます不動の《存在》なるものに近づいていく。それはもはや、他者とのあいだに司法的な《関係》しか築くことができなくなった、硬直した観念的現実にすぎなくなる。
存在と関係を超えて、われわれは、孤独と生成変化の力を取り戻さねばならないのである。
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