B:では、真実と歴史学が、別々に存在しているという、君の考え方は、いったいどこから来ているのだろう?
A:それは……当然のことだと思います。学問は、問いですから、答えを目指すものです。そして、学問にとっての答えとは、真実ですから、学問と真実が同じ場所にあると、そもそも、学問することが不可能になってしまいます。どうですか、この回答は。ちょっとあなたらしくなってきたと思いませんか。
B:そうかもしれないね。自分ではなかなか気づかないのだけど、ぼくはそのような答えかたをよくするようだね。
A:それはもう。
B:ともかく、学問のある場所と、真実のある場所は、つねに異なっている。じつは、歴史学に限ったことではないのだけど、近代の学問は、現在を占めているのだし、また、学問の対象である真実は、いつだって過去にあるんだ。なぜって、学者が真実を掴んだと思った瞬間に、その真実は、もう過去に逃げ去っているのだからね。この現在と過去の差異が、学問を可能にしている。ところで、この、現在という考え方を強調するために、ぼくたちの対話では、《いまここ》という言い方をすることにしよう。
A:なるほど、《いまここ》ですか。たしかに、学者というのは、《いまここ》にいるような気がします。
B:うん。しかし、現在が過去をその手にできるという、近代科学の自信はいったい、どこから来ているのだろうねえ?
A:はあ、わかりません。とても大きな問いだということはわかるのですが。
B:うん。まあ、そのことは、いまは少し関係がないので、急いで次に進むとしよう。だって、もう、日も暮れかかっているからね。ほら、見たまえ、ずいぶん太陽が赤くなってきた。
A:本当だ。
B:それに、少し面倒くさくなってきた……。
A:え?
B:ん、ぼくは何も言っていないよ?
A:空耳でしょうか。
B:そうさ。――さて、すべての学問は、たしかに、真実を目ざしているのだけど、いま話しているのは、すべての学問のことではなくて、歴史学のことだった。
A:そうです。わたしの聞きたいのはそこなんです。
B:君は、「歴史学は、真実に到達することが可能なのでしょうか」と問うた。だけど、君は何か忘れているような気がするよ。
A:えっ? そうでしょうか。
B:うん。わかるかな。さっきの対話で、歴史学と真実のあいだには、大きな距離があることがわかったのだけど、その真中にあるものを、なにか忘れていると思うんだ。
A:それは……なんでしょう。歴史ですか? いや、こんな答えは当たり前すぎますかね。
B:いや、そんなことないよ。ご名答! 歴史だ。歴史学は真実を目ざしているのだけど、もちろん、歴史についての真実を目ざしているんだ。
A:当然です。
B:同意ありがとう。つまり、《いまここ》から真実の過去を見ようとする場合、こういうつながりになっていることがわかる。歴史学――歴史――真実。これは一見、当たり前に思えるけど、とても大事なことだからよく覚えておいてくれたまえ。
A:はい。たしかに、歴史学――歴史――真実、ですね。
B:そうだ。つまり、歴史学と真実とは、別の場所にあるだけではなくて、その道も、直接つながっているわけではないんだ。なぜって、その前に、歴史がはさまっているのだからね。
A:たしかに……言葉の上では、そうなりますね。しかし、歴史と真実は、この場合は、同じものなのではないでしょうか。なぜなら、歴史学にとっての真実とは、歴史のことだからです。
B:本当にそうだろうか。歴史と真実とは、本当に同じものなのだろうか。
A:そうに決まっています。
B:ふむ。じゃあ、いっしょに考えてみよう、歴史と真実とが同じものなのかどうか。
A:どうぞ、歴史と真実とが本当に違うものかどうか、証明してみせてください。
B:うん。簡単なことさ。君は、いま、何をみている?
A:あそこの桜の木に止まっている烏です。
B:ほかには?
A:ほかには……もちろん、桜の木も見ています。
B:それだけ?
A:はい、そんなものですね。
B:ふむ。ぼくは思うんだけど、きみは、もっといろんなものを見ていたと思うんだよ。夕暮れ時の空やら、煙突から立ち上る炊事の煙やら、目の前を飛んでいる羽虫やら、その他ありとあらゆるものをね。だけど、君は、その中から、桜の木と、烏を選んだ。どうして選んだのか――それが、一番興味深いと思えたからさ。そして、君は、インターネットのブログにこう書く。今日、桜の木と、烏を見た、と。
A:いえ、そんなことは書きません。わたしとあなたとの対話の内容を、そっくりそのまま書くことでしょう。なぜって、じつは、わたしはこっそり録音していますからね。もちろん、あなたの同意が得られなければ、そんなことはしないつもりですが。
B:知ってるよ。君の魂胆は。まあ、名前を伏せておいてくれたら、考えてもいいよ。
A:じゃあ、そうしましょう。
B:まあ、いずれにせよ、君は、いつも、選んでいる、ということには同意するかね。
A:はい。だって、今日起きたことすべてを理解したり、紙に書いたりすることは、できませんから。きっと、誰にだって不可能でしょう。
B:そうだ。つまり、君の価値観が、物事を、いつも、取捨選択しているんだ。ところで、歴史にも同じことが言えないかな、歴史には、つねに、興味深いことが優先されるという構造があることを。
A:そうかもしれません。
B:そうだ。歴史は、どこまでいっても、すべてを網羅することはできない。なぜなら、歴史とは、むしろ、そうした取捨選択の積み重ねのことを言うからさ。それに、もし、かりにすべてを網羅するような巨大な情報装置が完成したとしても、それでも何の理解ももたらさないだろう。結局は、人間は、そこから何か必要なもの、価値のあるものを選んでしまうのさ。人類が誕生して以来、あるいは少なく見積もって、文字が誕生して以来、歴史はあるはずだけど、死んだ人間のすべての名前のリストは存在していない。それに、もし仮に存在していたとしても、何の価値もない。なぜなら、それは、平等ではあっても、無価値の謂いだからね。そして、こうした状況を望むことが矛盾であることは、先にぼくたちのあいだで同意が得られていたよね。
A:はい、たしかに。
B:すべての死んだ人間が、なにがしかの名前をもっていたことが、《真実》だとしてもね。
A:……はい。
B:もし、歴史という言葉に意味があるとすれば、それはまさに、歴史が、真実ではなく、真実の価値を扱っているからなんだ。そうでなければ、たんに真実と言えばいいのだし、それを扱う学問を《真実学》とでも名付ければいいはずだからね。むしろ、無数にある真実を、いかに束ねてひとつにするか、それが、歴史の役割なんだ。つまり、歴史は、真実よりも、その価値に重きを置いた言葉なんだね。そして重要なことは、人間は、すべてを記憶することはできず、つねに取捨選択を行なっているということ、そしてそうした記憶の欠陥の集積こそが、歴史の総体だということなんだ。
A:なんだか、歴史というのは、とても問題のある概念だという気がしてきました。
B:そうさ。ぼくはそれを欠陥と言ったけれど、このことは、否定することはできないんだ。だって、さっき君が桜の木と烏を《見た》ように、人間の感覚器官は、そもそも、取捨選択の感覚器官でもあるからね。つまり、人間の構造そのものから生じている事態なんだね。だから、このことを否定するのは、自分自身を否定するのに等しい、不可能なことなんだよ。したがって、記憶や記録というのは、じつは、忘却の装置でもある。
A:むずかしいですね。
B:それはぼくの言い方がまずいからさ。そんなにむずかしいことじゃない。ぼくが言いたいのは、歴史の向こう側に、歴史よりももっと巨大で多様な真実の層が存在している、ということなんだ。そこでは、真実は、ひとつではなくて、無数にある。だけど、人々の主観の数だけあるというのでもなくて、もっと、折り重なっていて、つねに変化しているような、そういうカオス的なものとしてある――これをイデアと呼ぶか、カオスと呼ぶかは、人それぞれだと思うけれど。そして、重要なことは、そうした真実の層とは、むしろ、歴史が整合性を付与するために捨て去ったもの、すなわちネガティヴであるとみなしたものの層でもある、ということだよ。なぜなら、歴史とは、つねに、ひとびとの価値観――つまり、主観の束によって成立するものだからね。それは、けっして、客観的なものにはなれないのだよ。したがって、歴史と真実というのは、ほとんど正反対と言っていいくらい性質の違うものなのだよ。
A:ああ、どうやらわたしはそれに同意せざるをえないようです。同意したくないのに。たしかに、たしかに、価値というものは、一部の人たちで共有されたものを越えることができないはずでしたから。
B:そうだ。もう答えを言ってもいいころだろう。歴史学は真実にたどりつけるか――否。たどりつけない。それが正解さ。なぜって、歴史学が目ざしているものは、真実ではなくて、歴史なのだからね。
A:ああ、やっぱり、そうだったのですね――ああ、なんということだ。いったい、ぼくはなにをやっていたのだろう、真実を目ざしているつもりが、正反対のものを目ざしていたなんて。ああ、ぼくは愚かだ!
B:ははは、そんなに嘆くことはない。なぜって、歴史が、少なくとも、ネガティヴな形ではあっても、真実に結びついているのは事実だからね。ぼくたちが真実にたどりつくには、やっぱり、そんなネガティヴな方法しか残されていないのだよ。人間という生き物は、直接、真実を目指すことはできないように作られているんだね。
A:はあ。
B:だから、過去の真実を知るために、歴史学をやるのは、結局は早道だと思うのさ。遠回りに思えてもね。ただし、歴史学が証明した歴史を、真実と同じものとしてみなしてしまうことだけは、絶対に、避けなければならないよ。ぼくたちは、真実にたどりつくためには、最後には、歴史学の領域を飛び出して、自由にならなければならないんだ。なぜなら、それはどこまでいっても、真実ではなくて、真実に付加された価値でしかないのだからね。もし、歴史と真実を混同したら、結局は、他人に価値を押し付けること――ぼくはこれを暴力だと呼んでいるのだけど――になるだけだからね。歴史を学び、かつ、そこから自由でいること、それがもっとも大事なことなんだよ。
A:なるほど、少し希望が持てるような気がしてきました。しかし、わたしの質問のなんと粗雑だったことでしょう。
B:おおかた、誰か他の歴史学者が言っていたことだろう? 君の考えだとは思えないな。
A:ああ、そこまでご存知でしたか。
B:まあね。しかし、そんな問いかけを歴史学者がしているなんて、ちょっと、先が思いやられるね。だって、歴史のことを、まるで考えていないのだから。まかり間違って運良く歴史にたどりついたとしても、彼は、歴史を真実と混同してしまうだろう。嘆かわしいことだ。――君は、歴史学者になりたいのかい?
A:はい、恥ずかしながら。
B:そうか、がんばるといい。だけど、君は、最後には、自分の明らかにした歴史をすべて否定してしまえるくらいの勇気をもって欲しいんだ。そうしないと、本当に、つまらない学者になってしまいかねない。学問の明らかにすることと、真実とは、つねに違うんだ、ということ、それだけは、忘れないでいて欲しい。いいかな?
A:わかりました。ぜひ、そうしたいと思います。
B:わたしの考えるすぐれた学者というのは、こうした反転――転回――のことを理解している人たちのことを言うのだと思う。そして、哲学者――知を愛する者――と呼ばれる偉大な人たちには、自らの知そのものを根底から批判するような、致命的な転回を自らの学問に取り入れようと格闘した、きわめて困難な足取りが示されているように思う。
A:はあ。
B:それにしても、この対話は、少し急ぎ足にすぎたようだね。
A:そうですか、わたしにはもうお腹一杯な気がするのですが。
B:うん、でも、消化不良のものも多いよ。
A:はあ。
B:まあ、こんなところで、よしとするか。
A:はあ。
(完)