19世紀初頭の歴史家、B.G.ニーブールは言っている。「歴史は明晰に周到に把握されるならば少なくとも一つの事柄に有用である。すなわちわれら人類の最大最高の精神といえども彼らの眼が見るための形式を如何に偶然に採用したかを知っていないことを、われわれは知ることができるからである。彼らはこの形式によって見、しかもあらゆる人々にこれによって見ることを強制的に要求する、強制的にというのは、彼らの意識の強度が格別に大きいからである。以上のことを確然と多くの場合にわたって十分に知りもせずに把握したこともない者は所与の形式に最高の情熱を注ぐ有力な精神の出現によって征服される」。
たとえば、ローマの歴史は、主として、初代皇帝アウグストゥスと同世代の歴史家ティトゥス・リヴィウスによるところが非常に大きい。142巻中、わずか33巻しか残っていない彼の『ab urbe condita libri(建国以来)』に主に依存する形で、今日われわれが学ぶローマ史は構成されているのである。だが、もちろん、彼の生きていた時代より700年も遡りうるローマ史上の出来事の叙述を、そのまま信用するわけにはいかない。このことは、資料の残存状況よりも、もっと深刻な疑問をもたらす。かかる資料への不審は、けっして払拭されえないからである。こうした深刻で、そして他方で素朴な疑問は、狭義のローマ史のみならず、もっと広大な問題領域を開示している。少なくとも歴史学に限定するとしても、歴史学がその「目的」とする実証positiviteの可能な閾とはどこまでなのか、上述のニーブールは、そのことを最初に指摘した歴史家のひとりであろう。
ただし、ニーブールは、そうした資料自体がはらむ貧困を肯定したうえで、にもかかわらず、最低限可能な実証を示してみせる。著名な彼の『ローマ史』は、小農家の社会として、きわめて限定的にローマを“描いた”のである。ここに、19世紀的な要素をみることは可能であろう。つまり、実証の可能性は、依然として、信用されていたのである。また、前述したニーブールのような認識は、19世紀の歴史主義の時代においては、きわめて稀であり、また、ほとんど継承されなかったと言ってもよいだろう。たとえば、19世紀半ばの著名なテオドール・モムゼンにせよ、資料批判の重要性を訴えつつも、歴史学が、ついには確実な実証に到達しうるというヘーゲル的な想定――確実な実証に人類が到達する日が来るとすれば、それは、ヘーゲルの言うのとは表面的には別の意味で、しかし本質的には同じ資格において、“歴史の終焉”を意味するだろう――はけっして覆されることはなかったのである。モムゼンは、たしかに歴史家リヴィウスのテクストを、近代以前の歴史家に特有の恣意的なものとして、すなわち近代の歴史家ならもっているはずの批判精神不在のテクストとして遡上にのせる(もっと正確に言えば、リヴィウスが引用した、彼より1から3世紀ほど前の資料の恣意性に無頓着であったことを指摘する)。だが、それなら、モムゼンは、いかなる資格において、ローマの歴史を構築したのであろうか? リヴィウスのテクストに疑義を呈しつつも、それをもとに歴史を構築せざるをえないというほとんど徒労に思える作業に向かう近代の歴史学者に特有の情熱が、いかにして可能だったのか? さらに言うなら、いちど、ニーブールのような歴史認識にまで到達しながら、なぜ、近代は歴史主義の途を歩みえたのか? おそらく、モムゼンたちにあったのは、批判精神というよりも、自らの主体意識への過信である。
そうした歴史学に対する徹底的な疑義は、やはり、ニーチェによってはじめて示されたといわねばならない。ソシュールでも、マルクスでもなく、ニーチェである。いや、正確を期せば、構造《主義》でも、マルクス《主義》でもなく、ただ、近代においてもっとも内在的な存在のひとりであるニーチェ《主義》だけが、それを可能にしたのである。ここで固有名ではなく《主義》を強調する転倒した物言いをするのは、わたしが、まさに、ニーチェの徹底的な疑義に対して肯定を与えるであろうニーチェ読者のその肯定を強調したいからであり、また、誰もが、自らのうちに、ニーチェを持っているからである。そうしたニーチェ主義は、たとえば、リヴィウスのテクストに見出すことができる。
Quae ante conditam condendamve urbem poeticis magis decora fabulis quam incorruptis rerum gestarum monumentis traduntur, ea nec adfirmare nec refellere in animo est.(Livius, 1, 1, 6.)
都市が確たる基礎を築く以前の時代に属するそのような伝承は、むしろ現在に基礎を置いており、またむしろ真実に値する歴史的証拠よりも詩的な伝説によって粉飾されている。わたしは、そのような伝承を確かめるつもりもなければ、否定するつもりもない。(誤訳失礼)
リヴィウスのような歴史家の言説に存在するこうした非歴史的な言説は、近代の歴史主義者には、嘲笑の対象としてではなく、近代の挫折のまえに警告的に浴びせられる冷水として招かれねばならないものである。語りえぬものへの沈黙を説いたウィトゲンシュタインのようなある種のストア的禁欲が――とはいえ、実証主義のつましい限定性に比べれば、かえってエピクロス的な豊かさへと至りうる禁欲が、そこにはある。すなわち、ニーチェの徹底した疑義の肯定の果てに生じる、言語論的転回linguistic turnである。そこでは、歴史は、リヴィウスが上の引用文のあと(1, 1, 7-)につづけて説いていたように、過去を追憶し、生をそこに従属させるものではなく、現在を生きるひとびとの生そのものに語りかけるものとしてあるだろう。過去の探求は、ついに追憶を超ええず、絶望へといたるという認識がもたらす、別種の希望としての、言語論的展開である。われわれは、ついにリヴィウスを超えることはできない、という笑いに満ちた希望。
実証positivite的歴史への疑義の陰画negatifとしてのひとつの歴史。むろん、それは、カントが現象世界の陰画として設定した《物自体》と重なりあう可能性をはらんでいる。だが、他方で、大急ぎで付け加えねばならないのは、それは、けっして美的aestheticにのみ語りうるようなものではない、ということである。実証的歴史がもっていた真偽の判断水準は、そこでも、依然として保たれていなければならない(かかる判断水準を要求するのは、すなわち、倫理ethicである)。わたしは確信するが、たとえばコントのような存在を持ち出すまでもなく、実証positiviteを無自覚的に信用する者こそが、かえってたんに美学的な信仰者に堕するのである。ポジティヴなもの――現象とは、もちろん、主観的であることを超えられないからである。美的であり、かつ真実であるもの、それが、歴史でなければならない。歴史学の標的は、まさにそこに向かっている。そしてまた、わたしは、それをこそ、ポジティヴ(=実証的)なものと呼んで、はばからないのである。