「文学者」とは、いったいなにか。厳密論で行くならば、何らかの描写において、徹底的にリアリズムを追求したことのある者だけが、「文学者」でありうる。だが、もちろん、そうでない者もたくさんいる。彼らもまた、文学者であることには変わりはない。まったくの駄作についても「作品」と呼ぶことが可能なのだとすれば――たとえば、ここでときおり文学と称されている、この文章の書き手が懲りもせず生産する粗悪品のように――、やはり、リアリズムを追求したことのない書き手もまた、文学者でありうるのである。
しかし、振り返ってみれば、悪しき前例である保田與重郎の浪曼主義ですら、既成リアリズムへの、あるいは“科学的な”客観描写への――そして、ひいてはマルクス主義への批判だった。今日では、そうしたリアリズムそのものが忘却され、マルクス主義が忘却され、挙句の果てに跳躍すべき崖を欠いた想像的飛躍のごときロマンティックを気取る粗悪品が大量に生産され、そしてなおかつ、それらを消費する消費者も、それが粗悪品であることに気づいていないという、破滅的な事態が破滅的な速度で進行しているのである。粗悪品であることに気づかれない粗悪品は、はたして粗悪品だろうか? むろん、厳密論が機能していない場所では、それを粗悪品だと言ったところで、狼少年扱いされるのがオチである。それとも、粗悪品であろうが、“オンリーワンだ”とでも言うつもりなのだろうか。ならば、破滅したことに気づいていない破滅者ははたして破滅者だろうか? それはむずかしい問いである。答は、歴史だけが知ることになるだろう。
循環史観を唱えたポリュビオスが盛者必衰を嘆いたことはよく知られている。だが、彼は盛者必衰を嘆いたのではない。衰微しゆくギリシアを見、カルタゴを見、そして興隆するローマを見て彼が嘆いたのは、破滅する者は、自分が今まさに破滅への路を歩んでいることに気づかないことなのである。彼が哀れんだのは、他でもない、滅び行くカルタゴではなく、まさに地中海の覇者たらんとして玉座を駆け上るローマに対してなのである。