延命策としてのプロテスタンティズム

history
2000.12.16

ニーチェ主義者だったマックス・ヴェーバーにとって、ドイツ歴史主義の時代の雰囲気のなかで活躍しながらも、また、その当の歴史主義こそは最大の敵でもあった。それゆえ、今世紀の半ばにポッパーによってなされた歴史主義への痛烈な批判のあとにあっても、いまだなお、ヴェーバーの輝きはその光を失っていない。彼が、「歴史とは価値にたいする関係である」と言ったとき、彼は何を考えていたのか。今日のわれわれにとっては、歴史とは価値関係ですらなく、もはや自律的に存在しうる出来事の領域に属するものであるのだが、ここではそのように重箱の隅をつつくようなことはしないでおく。わたしのここでの目的はそのようなことにあるのではないからである。彼の言う「価値関係」とは、歴史学者の個人的なある偏愛の結果生じる<悲劇的>な選りわけのことを指している。そう、彼は、歴史を歴史学者だけのものにしようとしているのだ。無論、彼が偉大な<歴史>を破廉恥にも独り占めしようとしていると言いたいのではない。つまり、彼の目的は、歴史を歴史主義の地平から解放し、人文諸科学全体を凌駕する<歴史>ではなく、歴史学というひとつの学問領域のなかだけで息ができるような歴史概念を創造することにあった。いわば、彼は歴史を古典主義時代以前の歴史自らの領域へ後退させようとしたのである。

彼の思考を裏側から支えていたのは、歴史一般に属するような歴史など存在しないという意識である。歴史は個別的な出来事の単なる集まりにすぎないのだ。それゆえに歴史は歴史家によって種別化されるのを待っており、歴史家の偏愛に応じて選りわけられ、項目別にまとめられる。大文字の<歴史>など存在しないのだ。しかし、このような土台となる思考は、やはりニーチェによってもたらされたと考えねばなるまい。ヘーゲル以来、<歴史>が終焉を迎えるだろうことは予測されてきたことだった。だが、ニーチェによって<歴史>の終焉が積極的な当為として叫ばれたのちは、歴史家ヴェーバーには危機意識に似た何かがあったのではなかろうか。歴史家が思想の特権階級たりえた19世紀にあって、その危機意識たるや今日のそれとは比較にならないものであったにちがいない。だがそれゆえに、歴史主義の華やかなりしヴェーバーの時代と、もはや赤茶けた枯葉のような今日的歴史の時代との乖離が、ヴェーバーの危機意識を「謎めいたご宣託」のようにしてしまう。

ニーチェによって提起された危機意識からくる、彼の思惑は、歴史学の延命、これ一点にあった。事実、かりに大文字の<歴史>が消滅しても、歴史家によって蒐集されるべき小文字の歴史が散乱し、錯綜し、そしてあたりに蔓延していることだろう。歴史主義的な<歴史>から一歩も二歩も後退することによって、歴史学は恒久的に残りうるかにみえる。彼のこの大いなる後退は、まさにキリスト教における宗教改革を思い起こさせる。「聖書のみ」。このルターの言葉に代表される初期のプロテスタンティズムは、「聖書」という砦を残したとはいっても、まさに宗教の後退を意味するといっていい。そう、歴史学者の最後の砦が、「古文書」にあるように。

古典主義時代、言語とはまさに透明な存在であり、物を映す透明な鏡として、言語はあった。それゆえ逆説的に、表象が世界をくまなく覆いつくし、もはや、物自体の存在する余地はなかったといっていい。そのような時代だからこそ、ルターの、もっとも透明な言語を集めた「聖書」のみに依存した宗教改革=プロテスタンティズムは、ある一定の効力を示威することができたのである。だからこそ、神は古典主義時代を通じて延命されえたのであった。だが、今日の歴史学における「古文書」への回帰、いわばプロテスタンティズム的な表象の世界への回帰は、果たして歴史学を延命しうる威力を維持しているだろうか。いや、もはやそのような回帰では歴史は延命されないのではないか。そのような回帰がニーチェの「永遠回帰」を意味しないことは、懸命な読者ならすでにおわかりだろう。古典主義時代の「博物学=Histiore de Nature」が近代においてまったく意義を失っているように、「歴史学」も早晩、その意義を失いかねない。古典主義時代のいわゆる絶対的な表象の時代におけるプロテスタンティズムが、ある一定の成功を収めたのにたいして、表象が力を失った今日における歴史学が、たとえ「古文書」に回帰しようとも、結局は閉じたモノローグを形成するほかないということは、予測できない結果ではない。ヴェーバーがその名著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』でプロテスタンティズムをとりあげたことは、今回述べたこととの偶然の一致にすぎない。しかし、あるいはその象徴的な出来事であったといっていいのかもしれない。

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