弱者と苦しむ者について。「強者こそ守れ」と言ったニーチェの言葉は、高校のときに触れて以来、ずっと僕の心に残っている言葉だ。自分にわからない言葉があったら、それは幸運だ。問いの形で心に残しておくことができる。ずっと——つまり人生をかけて向き合えるような、そういう言葉は、たしかにある。意味不明と投げ捨ててしまうのではなく。そもそも、わかりやすい言葉というのは、ほんとうは存在しないのだ(わかった気になれる言葉はある)。
最近はその言葉がすこしわかった気がしている。ひとは、《現に苦しんでいる者》よりも、《弱者》を守ってしまうのだ。弱者と苦しむ者は同じではない。どれほど屈強な肉体と健康な精神とをもった男でも、苦しむことはあるからだ。
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ところで「善」とはなにか。この語は、意外なことに「速度」にかかわっている。善はもっぱら速度の問題なのだ。たとえば教室で、机が隣の女子が、消しゴムを落とす。すこし時間が経つと、拾ってあげられなくなるのである。この時間が、自分を「善」から遠ざけてしまう。拾ってあげたくても、それができなくなる。だから落とした瞬間が勝負である。
時間がかかれば、行為に道徳がまとわりついてくる。たんに「助けたい」という自然な感情に道徳がまとわりつき、めぐり巡る時間の余裕が、行為を自己保身や利益誘導に近い偽善に変化させる。いいかえると、善は言行一致と、つまり思った端から行動する、という速度と関わるのである。
大人になると、たくさんの税金を納めるようになる。それは、《現に苦しんでいるひと(自分も含む)》のためにそうするのだが、これもやはり速度に関わっている。手を差し伸べたくても、時間がかかって届かないひとのために、税金を元手に国家が動くのだ。自分の納めた税金は苦しむひとのために使ってほしい。
しかし、昨今、ある特定の社会が長くつづき、苦しむひとと弱者の区別がつかなくなってきた。それどころか、苦しむひとよりも弱者のほうが優先される社会になりつつある。苦しむひとはタイミングを必要としている。《今》、救わねばならない。だが、弱者なら《事前》の認定の問題だから、タイミングを必要としないのだ。だから結果的に、弱者のほうが救われやすくなる。それはどういうことだろうか。弱者は依然として守られねばならないのだろうか。
自分のことを弱者だと認識している者は、ひとより防衛する。だが、その防衛に税金が支払われるとしたら、どうなるのだろうか。強者/弱者という二元論は、権力が行う認定の問題に属する。端的にいえば、どこで線を引くかは恣意的だ。老人は一般的に弱い存在だが、すべての老人が弱いわけではない。老人とみれば助けなければならない、となればどうか。また《事前》とはいったいどこまでが事前なのか。事が起こることに備えて前もって助けるとしたら、いったいいつから助けなければいけないのだろうか。
リベラルは「弱者を守れ」という。だが、その線引きは国家権力が行わねばならない。どこまでが弱者で、どこからが事前なのか、誰も知らないから、決めるしかないのだ。もともと、弱い者を守る、とは、弱いという認識が先立つために、《予防》にかかわってしまう。さて思い返してみよう。「弱さ」とは、自己認識から始まっていることに。
誰もが自分を弱者の側に配置し、守られねばならないと思い、そこに税金が投入されれば、際限のない《事前》のために、社会は破綻してしまう。《予防》には、原理的にキリがないのだ。その極端な社会が現代の日本社会である。いま苦しんでいる者は気の毒だが、われわれは予防に金を使う。それが日本社会だ……。
そういうわけで、もしこの日本社会がおかしいと思うなら、考えを改めなければならない。弱者を見捨てよう、ということではない。強者/弱者の二元論ではなく、現に苦しむ者のために、税金を使わなければならない、という原則を思い出さなければならない。原理的には、そのために税金を納めているのである。
僕らは、本来、苦しんでいるひとたちには、自然に手を差し伸べることができる。犬猫でも、亀でも、それはできるのだ。ただ、人間の場合は、「情報」だけが入ってきて「存在」が欠けていても、言い換えれば僕らに速度が足りなくても、税金で国家が動いてくれる。それは「善」に属していると僕は考える。
コロナで後遺症を恐れる一部の人間が、予防に金を使うことをひたすら主張していたが、そんなことより後遺症で苦しむひとにこそ税金を使ってくれと、僕にはそう見えていた。しかし、まずは生ける弱者であるわれわれに金を使え、というわけである。
その象徴が、非感染者がつけるマスクだが、つまり《予防》の象徴である。これは人間の業だ。この業をゆるめるために、人間には哲学がいる。古来、つまり言葉を知って以来、もう、そういう生き物なのである。「弱者という言葉」を知った時、《現に苦しむ者》と区別がつけられなくなったのである。
予防にどこまで金を払うべきか。僕としては、まず《苦しむ者》だ。そこをおろそかにしては本末転倒である。助かりたい、という気持ちに税金が支払われるのではない。実際に苦しんでいることに、金を払うのだ。その原則を日本社会は踏み越えている。なんの哲学もなしに/ひたすら死を遠ざけるために。
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死にそうな者は助けない/弱い者は助ける。これはもう日本社会破綻の象徴である。だからニーチェはいう。誰もが強者である必要はもちろんない。だが、《現に救いを求める者》に手を差し伸べることのできる強者をこそ、社会はむしろ守らなければならない、と。
ニーチェは、西洋の神が、弱者しか救わず、真に苦しむ者は救わないものであると、よく知っていた。その概念的・原理的・哲学的違いも、よく承知していた。だから、救いを求めない強者をこそ救えと、そういうのである。
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