心霊とエゴイストの人文学

criticism
2014.01.03

古来、ひとは幽霊や妖精なしにはなかなか生きていけないものなのだが、人文学者のアドヴァンテージは、はじめから、幽霊や妖精を扱っていると自覚していることである。つまり、彼は幽霊や妖精の実在を口にしてそれを学問の対象にできるほど、徹底的にエゴイストである。いい加減なエゴイストではない。

人文学者にとって、精神は肉体と同じように決定的に実在する。たとえば赤子が他人の肉体、すなわち母親の乳を必要とするように、ひとは一個体だけで生きていくことができない。こうしてつくられ、やがて増大していく紐帯を精神と呼ぶ。個体が個体だけで生きていけないとき、個体は精神を呼び出す。

精神の集団性を肉体が決定的に分割しているのだが、しかし一方で、その精神が肉体的分業を強い、肉体が集団においてしか存在できないようになれば、今度は別のものが呼び出される。エゴである。そして実際には、このエゴが、すべての源なのである。母乳が欲しくなれば、赤子は泣くのだから。

こうして、ひとは適当に、精神、肉体、自我を使い分けているわけである。たとえばヘーゲルにおいて、もっとも隠されていたのは最後の自我である。彼は精神と肉体だけを表向き問題にしていたが、実際には彼のエゴが峻烈に現れていた。それが彼の弁証法であり、弁証法に内在する彼のエゴが、この議論を強力なものにしていた。

自我をはじめて明らかにしたのはシュティルナーであり、自我をはじめて哲学の対象にしたのはニーチェであり、自我をはじめて教育の対象にしたのはシュタイナーである。だが彼らの努力にもかかわらず、今日でも、自我=エゴは敵視される。その結果、どれほど優秀な若者でも、かえって自我は未熟である。

教育がどうしても胡散臭くなるのは、精神=道徳と肉体=体育とをしか自由にさせないからである。というか、もっぱら自由は精神の問題であって、自我の解放は自由の問題群から排除されるか敵視される。精神から、エゴは非道徳、犯罪の温床だと、みなされているほどである。

エゴが犯罪の原因になることがない、というわけではない。だが、それをいうなら、精神の犯罪も肉体の犯罪もまた、あるのであって、実際には、精神の犯罪がもっとも巨大化する。すなわち、宗教や戦争である。ひとは古来、「大義」のために人を殺すときに、もっとも恐ろしい殺戮を繰り広げたのである。

人文学にもし意味があるとすれば、この学問だけが、まさに、エゴそのものを唯一、問題にしているからである。だからこの学問は、「他人の」役にはたたない。ただ、「自分の」役に立つだけなのである。

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