忘却の系譜学

philosophy
2010.01.30

ニーチェは、『楽しい科学』のなかで、「忘却の音楽」について語っていた。たしか、彼はそこで、芸術を二つに分類していたはずだ(不確かな書きかたをするのは、いま手許にこの本がないから。今月二度目の満月の光を浴びながら、これを書いている)。作者が観客を起点として作りあげるものと、ただ独白に終わるもの。望ましいのは、前者ではなく、後者である。

ニーチェは、たとえ一見独白ではあっても、神との対話において作られるものは、前者(観客の視線を前提したもの)に含めている。神の視線を精神のうちに拵えているかぎり、それは観客を起点とするものとなんら変わりはない。結局、彼は独白のために必要な孤独を知らないのである。だからニーチェは、徹底した不信心が生まれた近代において、はじめてこの分割が可能になったことを指摘していた。神に回収されることなき真の独白は、稀有なものである。おそらく前者には、ナルシシズムも含まれるだろう。ナルシシストによって極限まで超越化された自己は、神に等しいからである。というか、観客の視線を前提したものは、じつは、ナルシシズムの範疇に含まれる、といったほうがよいのかもしれない。観客がどう思うかなど、究極的にはわからないからである。それは、精神のうちに拵えあげられた神と同種の不確かさをもっている。ナルシシストにとって、作者としての自己は、超越的な自己をみつめる観客なのである。結局、はじめから世界を求めて行なわれる芸術には、多かれ少なかれナルシシズムが含まれている。したがって、もっともすばらしい芸術は、ただ独白であるような芸術である。そうした芸術は、あえて世界を忘却しているのだと、ニーチェはいう。忘却の音楽、それが、独白芸術の中心であると、ニーチェはいう。

ニーチェの分類を展開してみよう。われわれは、ここに、二つのタイプの世界喪失をみることができる。ひとつは、世界を求めるあまり、自己の鏡像、すなわち〈記憶のなかの他者〉を観客に投影した芸術。もうひとつは、世界(観客)をはじめから忘却することで、観客の向こうの〈世界に向かって〉語る芸術である。この芸術家は、どちらを選んでも、世界を忘却することになる。だがすくなくとも、神なしに語ろうとする後者の行なう忘却は、あきらかにポジティヴである。他人の力を借りることなく、自身の力で芸術を創造する。忘却は、けっして「欠失」などではない。われわれは、両の手に、記憶の世界と、忘却の世界という、二つの世界を手にしているのである。「忘却の音楽」は、記憶の世界からわれわれを遠ざけるかわりに、忘却の世界を手にすることを許す。それもまた、世界である。記憶の向こう側にひろがる、忘却の世界。そこはおそらく、彼岸であり、言葉の真の意味で《外》である。思うに忘却とは、きわめて不思議なものである。

スティグレール(彼の本も、いま手許にない。部屋に忘れてきてしまった)は、プロメテウス、エピメテウス兄弟の古い神話を紐解く。神々は、地上に、人間を含む動物を作り出した。兄プロメテウスは、動物どもに武器や衣服を分配する役目を仰せつかる。兄は弟にその仕事を任せ、自分はそれを検査する役に回った。この愚鈍な弟が仕事を終えたとき、人間にはすっかり武器や衣服を分配することを忘れていた。そこで一計を案じた兄は、へパイストスから火を、アテナからそれを用いる知恵を盗み出し、これを代わりに与えたという。スティグレールが注目するのは、火や言葉などの〈技術〉が、愚鈍なエピメテウスの「欠失」に依存していたことであり、この「欠失」を起源として、二本足の毛のない動物――これはプラトンの人間の定義である――は、いわゆる《人間》となった、という点である。

彼は、哲学にとってもっとも重要なのは、《技術》だという。技術がきわめて重要なものであることは論を待たない。火しかり、文字しかり、これら技術がなければ、ひとはひととしての能力を十全に発揮できなかっただろう。だが、スティグレールがいいたいのはそういうことではない。技術を哲学する、とはこういうことだ――《技術》を、人間の存在論的な「欠失」そのものとして読み解くことであり、したがって、存在論的・時間的差異としての技術の哲学は、人間そのものの解体や脱構築を目論んでいる。

スティグレールによれば、プラトン以来の西欧形而上学は、こうした意味での技術を見過ごしてきたという。ここには、技術に刻み込まれた「欠失」の欠失、二重の忘却がある。人間は、この「欠失」を忘却することなしには、欠如態を脱出し、実定的(ポジティヴ)な意味での人間となることができない。デリダの音声中心主義批判を受け容れるなら、文字痕跡――これも技術である――に先立たれることなしにはありえないとされる音声中心主義の広まりは、まさにこの二重の忘却が存在していることの証左であろう。しかも、スティグレールによるなら、技術は、文字が典型であるように、全体として、それ自体が記憶を司るものである。というのも、技術は、時間を圧縮するか、あるいは同じものを再現するかして、記憶‐想起と同じはたらきを行なうからである。にもかかわらず、プラトンは、ヘルメス=トトによってもたらされた文字の技術を、忘却に属するものとして、彼が最重要視した《想起》の術から取り除いた(『パイドロス』)。だが、《想起》もまた、疎外された技術に先立たれることなしには不可能であるとするなら、やはり、ここにもまた、二重の忘却があることになる。

かくして、スティグレールは、プラトン以来の西欧形而上学を批判する権利を得ることになる。ハイデガーからデリダに至る系譜の哲学者にみられるこうした《自己批判》は、ハイデガーの時代ならまだしも、われわれにはほとんど無用の代物だとわたしは思う。哲学史を全否定できれば楽しかろうが、わたしはもっと生産的な響きを歴史に求めたい。また、彼がプラトンを読解した際に行なった脱構築的手法も揚げ足を取るようで、あまり好みではない(ほとんどの場合、脱構築が作品の解体のために取り出す作者の無意識は、作者には意図的なものであると思う――というか、すぐれた作家は、無意識や忘却を、むしろ自分の責任で使用することを好むのであり、なにがなんでも無意識を無意識のままに回収しようとするものである)。人間を解体する、という点で共感はするが、そもそも、技術について、人間について、そして忘却について、ニーチェの徒であるわたしはこうした見方をとらない。

カント以来、近代の哲学には、二つの系譜があるように思われる。ひとつは、忘却に抵抗する哲学であり、もうひとつは、忘却を取り込んだ哲学である。《忘却》という概念は、きわめて照準をあわせるのが困難なものである。というのも、それは、一種の裂け目であり、割れ目であり、その本質からして表象を伴わないものと考えられているからである。したがって、この二つの系譜のちがいはなかなか顕在的にはならなかったのだ。だが、おそらく、この隠された系譜は、はっきりと区別される。カントやフロイト、アーレントやデリダ、そしていま話題に上っているスティグレールは、前者に属する。彼らはより確固たる記憶のうえに自身の哲学を構築し、そのあとで、ネガティヴな忘却に抵抗するか、より高次の記憶のためにこれを受け容れるかする。したがって、忘却は、この哲学の内部では、基本的にネガティヴな意味合いをもつ。その一方、ニーチェやベンヤミン、フーコーやドゥルーズは後者に属する。忘却に抵抗しようとする前者の努力には、心の底から敬服するが、後者はそうしたところからは、すこしだけずれている。彼らは、はじめから記憶が忘却を伴わないかぎり存在しないという、このパラドックスの上に哲学を構築した。忘却と記憶はあくまで連続的なものとして、カップルとして把握される。忘却は時と場合に応じて、記憶同様にポジティヴかつ生産的な意味合いをもつことがある。彼らは、記憶忘却、双方に対して、中立な姿勢を崩さない。彼らの哲学は、〈ここからはじまる〉。

忘却は表象を伴わないといった。だが、ニーチェの系譜に属する哲学からすると、むしろ忘却こそ、表象を伴うのである。忘却が表象を伴うとき、それはほとんどの場合、怪物の姿をまとう。たとえば、人間に目が二つあることを忘れてしまったひとは、それをひとつや三つにするだろう。人間の下半身がどんな姿だったか忘れた者は、それを馬や魚の姿に描くかもしれない。なにもかも忘れてしまったひとは、きっとほとんど液体と変わらぬような軟体動物を思い描くだろう。すぐれた芸術家は、この忘却を意図的に使用することができる。たとえば、プルーストが発見した「無意志的記憶」とは、まさに文学者が住まう〈忘れられた〉土地である。この土地は豊かである。というのも、芸術は、ここでのみ、花開くからである。彼らは、怪物の代わりに、美しい妖精を思い描く。

スティグレールは、忘却に先立たれることなしに、記憶は存在することはなかったという。それはそのとおりである。だが、忘却は「欠失」ではない。忘却は豊かである。さきにみたように、ここは、あらゆるものが生まれ出る《真空》である。『国家』におけるソクラテスの言葉にならっていえば、忘却は、穢れなき魂の新たなる再生のために、必要なものである。ナーガールジュナに非‐認識論的に従っていえば、色彩は、この《真空》から生まれ出る。

さて、人間とはなにか、それも技術にかかわるかぎりでの人間は、どういった点でほかの動物と、あるいは自然と区別されるのか。スティグレールがいうように、技術は、とりわけ記憶に関わっている。それはたしかである。炎を実現可能なものにする木切れとその技術は、人間にとって偶発的な出来事でしかなかった炎を、再現可能なものにする。木切れには、一回限りの出来事の記憶が詰め込まれていて、木切れの道具としての使用は、この記憶を再現する。つまり複製する。

しかし、この技術は、いまだ人間的なものとはいえない。炎になんらかの象徴的な意味合いがあることはたしかだとしても、依然として、この技術は自然に属している。偶然に起こった山火事と、木切れの燃焼とのあいだには、結果においてなんら違いはない。意図的に燃やされたのか、そうでないかにしか違いはないし、そもそも、そのような意図に自然は頓着しない。したがって、この技術には、火の想起があるが、同時に忘却がある。生まれ、そして消え去るこの技術は、そのかぎりで、自然に属している。技術が自然から乖離するためには、文字の発明を待たねばならない。というのも、文字は、その本質からいって、消えないからである。

むろん、文字もまた、その他の現象同様に、本来は消え去るものである。たとえば、ひとの肌に刻まれたタトゥーは、肉体の分解速度に応じて消え去る。石盤に刻まれた文字も、石盤の分解速度に応じて消え去る。消えない、という夢想をひとに抱かせる権利は、どうして生じるのか。文字痕跡を残した主体の寿命を超えて残る、ということによってである。痕跡を残した主体の死後も、消え去らない痕跡があるとすれば、それはある観点からいって、消えないといわれる権利を持つ。ここには、万物の起源を人間に置くプロタゴラス風の人間中心主義がある。

消え去る速度が早いか遅いかの違いしかない声と文字を、人間の寿命を規準に、消える消えないという観点から区別するとき、はじめて、この技術は人間的なものとなる(消滅についてのスティグレールの考察は、余計なことをしているとしか考えられない)。だがもちろん、同時に、この技術は自然にも属している。けっして、スティグレールのいうような人間の「欠失」の埋め合わせなどではなく、たんにポジティヴな面をもっている。その点について、まず簡単に説明しておこう。文字は、その他の動植物の行なう技術的行為と比較すれば、圧倒的なポテンシャルを秘めたものである。というのも、その他の動植物は、自身の外部に、ここまで長期的に保存される痕跡を残すことができないからである。その他の動植物は、胎内で交わされる言葉である遺伝子に頼るほかない。したがって、進化(差異化)の可能性は、まさに種が引き継がれる瞬間にしか訪れない。しかし、人間は違う。読み読まれる文字を実現することによって、時空間的な限界を超えたのである。たしかに、声(口伝)もまた、差異化の機会を増やしはしたが、あくまで加算的であった(ここでは詳しくは触れないが、声には、とりわけ主体にかかわるさまざまな制約が顕在化している)。だが時空をこえて読み継がれる文字によって、差異化の機会は圧倒的に、累乗的に増大した。人間は、書物を生み出す。自然史の内部に《歴史》を実現し、自身の王国を作り上げるほどに、この技術は驚異的だったのである。

しかし、この技術が圧倒的な差異化を生み出すためには、ひとつ条件がある。自然に属するかぎりで、この技術を使用することである。すなわち、遺伝子同様、言葉を引き継いだ瞬間に前の言葉は喪失し(忘却され)、新たにすぐれた差異を実現した言葉がこれを塗り替えなければならない。そうでなければ、差異化は実現せず、せいぜいオリジナルの解釈であるとか誤読であるとかで終わってしまうからである。こうなると、親と子が別々の個体であることがむずかしくなってしまう。残念ながら、文字は、往々にして、差異化ではなく、解釈の対象になってしまうし、親が子に優越する結果さえ生まれてしまう。子はたんなる親のヴァリエーションに過ぎず、個に種が優越してしまう。なぜか。消えないからである。自然界でつねに発揮されている《忘却》がなくなってしまうのである。文字がサトゥルヌス(クロノス)的な禍々しさを発揮するのは、このときである。我が子を喰らう悲劇的な力を、文字は有する。文字は、〈記憶することしかできなくなる〉。……

要するに、エピメテウス=忘却の存在喪失が、忘却の忘却が、つまり単独で生じる記憶が(忘却の忘却は記憶であって、スティグレールのいうような忘却の二重性は生まれないように思われる)、文字技術を人間的なものにしたのである。スティグレールは「動物的均衡」からの「隔たり」として、人間を捉える。エピメテウスの忘却によって、人間は消えゆく者となり、動物的均衡を失ったというのである。だが、消えゆくという規定は、自然あるいは動物のものである。不死や永遠こそ人間的なものである。エピメテウスは、むしろ、人間に動物性を回復させる者であり、〈自身をつねに第一世代と考える人物〉である。「エピメテウスの過失」によって炎と知恵とが与えられたとしても、それは、まだその他の動物に比して質的な飛躍を可能にするのではなかったと考えるべきだ(不用意な言い方を許してもらえれば――文字を持たなかったアイヌなどをみればそれは一目瞭然であろう)。また、歴史的時間が可能になるのは、エピメテウスが先立つかぎりで、プロメテウス的な知が起動する場合だが、過去と現在の対称性にもとづく歴史的時間は、エピメテウスによって再度破られるのである。ともあれ、動物は観衆に向かって話したりしない。エピメテウスもまた、観衆に向かって話したりなどしない。愚鈍な彼は、それが誰かなど忘れてしまうからだ。エピメテウスは、相手が誰かなど、覚えていない。〈彼らはいつも、世界に対して独白する〉。言った後で、相手が誰だったかは、きっと思い出す。人間が技術の観点からその他の動物と区別されるとすれば、愚鈍というよりは動物を贔屓しているだけかもしれないエピメテウスを、「欠失」などという言葉で蔑む人間の視線そのものによってである。動物のよき伴侶であるエピメテウスが可能にするのは、技術ではない。むしろ芸術である。彼は、《希望の神》という側面をもっていることを、忘れてはならない。すべてを先んじて知る兄プロメテウスが、弟の愚鈍さを知らないはずはなかった。それでもなお、兄は弟に重大なものを託すのをやめなかった。動物を愛する弟のためなら、窃盗さえ厭わなかった。弟の忘却は織り込みずみであるはずの兄にとって、窃盗は予定されていた行為である。この窃盗に、罪の意識や負い目などまったくない。

文字が、忘却を否定する消滅不可能な特性においてただちに使用されたわけではない。《想起》に力点が置かれているかぎり、記憶が忘却に優越する状況は完璧に回避できる。兄弟は、まだ仲良く手を取り合っていたのだ。スティグレールの指摘するように、ソクラテスは、奴隷少年に《想起》させる際に、文字を使用している。だが、重要なことは、それが砂の上に書かれたことである。砂の上に描かれた文字は、簡単に消すことができる。デリダのいうような痕跡など残らないのは確実である。その点で、この技術の使用法は、声と変わらない自然さを有しているのである(雨の日にはいつもそわそわしている犬のマーキングと違いはない)。ギリシア悲劇や哲学は、文字技術の陥る悲劇を回避するためにわれわれに与えられた警鐘であると理解される。また、マーシャル・マクルーハンの指摘するような前近代の写本文化は、速度のゆったりした口伝であると考えることができる点で、古代の《想起》技術の範疇に属していたし、活字技術ができたとしても、紙などの媒体が大量生産されないかぎりは、そこまで大きな変革が起こるわけではない。

やはり問題は、紙の大量生産である。《人間》は、もっと最近の発明だと、フーコーは言った。世界大戦などをやらかした近代的《人間》の罪を、古代人にまで遡って着せるようなやりかたは、すべきではないと考える。ギリシア人の明朗さ、プロメテウスの罪にまで品と位を与える彼らの快活さは、陰鬱な近代にはなかったものだ。ともあれ、この大量生産は、つかのま、爆発的な差異化の力を生み出した。だが、年月を重ねるにつれ、奇妙なことが明らかになっていった。言葉が、つねに燃え残っている……。痕跡や灰がたえず存在し、動物としての人間につきまとう。みよ、痕跡や灰が、傷や炎に先行している……! カントやヘーゲルが、そして資本主義がほくそえむ。それでこそ人間だと、彼らはいう。新しい芸術が、新しい哲学が生まれたとしても、アーカイヴズを刷新するのではなく、付け加えることしかできなくなる。われわれの生の帰結としてアーカイヴズが残されるのではなく、われわれはアーカイヴ化された生をより巨大なアーカイヴズに付け加えていくだけなのだ。主語を、ひとびとは古文書にあずけてしまったのである。

今日、オリジナルなものをみることはほとんどなくなってしまった。すべてはすでに起こったことの繰り返しなのだ。新しいことなど、なにひとつ起こらない。出来事など、どこにもない。オリジナルへの意志など、もはやなくなっている。真にオリジナル=固有なものは、オリジナル=根源への意志なしには生まれえない。無限につづくいまここ、すなわちアーカイヴズにこれだけ埋もれていれば、歴史を求める必要などありはしない。歴史の必要などほとんどないほどに、われわれは、ニーチェのいう「歴史病」に犯されている。だが、今日、歴史のうちに根源を求めるひとだけが、真にオリジナルなものを実現できると、わたしは思う。たとえば、ジャン=リュック・ゴダールのように。

その点で、今日のインターネットの世界には、もちろん可能性がある。とくにわたしが注目するのは、消滅を基本とするRAM的な技術である。よくいわれるように、コンピューターの歴史において、画期をなすのは、自ら忘れることのできる記憶装置、RAMの発明である。ハードディスクなどの大量記憶装置にまつわる技術は、忘却=洪水を塞き止めはするが、完全に防ぐことはできない巨大なダムのようなものである。したがって、カントの悟性同様、一種の遅延装置であると理解される(「バックアップ」を取ることほど、馬鹿馬鹿しい気分にさせてくれるものはすくない――バックアップなど取らないことを推奨する)。いずれにしても、重要なことは、アーカイヴ化を逃れる可能性があるか否かである。われわれは、この方向で、この技術を使用しなければならない。つまり、文字を声のように使用しなければならない。〈新しい言文一致運動が必要だ〉。この点ではおおいに勝ち目がある。というのも、インターネットの世界は、基本的に生成変化しているからである。これほどアーカイヴ化に反しているものは、今日見当たらないほどである。

しかし、今日、インターネットの世界を跋扈しているのは、まさに逆の発想からこれを使用するひとたちであるようにみえる。古い時代の最後の世代が、ネット社会を歓迎しながら、文字技術を人間の世界につなぎとめている。独白のための技術が、観客のために用いられている。征服は、始まって久しい。われわれはむしろ、忘却を回復せねばならないのに、その美しい使用法を知らないのである。……

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