怒りと老いと大樹

diary
2013.04.26

言語が現実と結びついていることの確かさを教えないなら、じきにひとは怒り方を忘れてしまう。シニシズムだけが蔓延り、そればかりか怒りのはけ口を誰に向けることもできず、無意識に不満を注ぎ込んで病を病むしかなくなる。怒りをもたらすのは論理であり、一貫性に対して世界がもっている意志である。

悟ることが怒りの感情を抹消することだというなら、なぜ仏像はあれほどに怒りを湛えているのか。眉間に皺寄せ、口を開き、手をあげる。彼らは世界に怒りをあらわしてなお仏像である。わたしはやむにやまれず怒りを表明する人間を愛する。わたしも怒りを露わにできる人間になりたいと思う。

ところで、老いの素晴らしさの一つは、世界に対する信頼を刻一刻と高めていくことである。かつては対象なしに浮かばなかった思考が対象の軛を逃れて自由になる。純粋な思考とでもいうべきものが露わになり、世界の何処かに息子がいるのがたまらなく嬉しい。よく老いた者は、空を飛べるように思われる。

恵子、荘子に謂いて曰く「私のところに大樹があり、ひとはそれをオウチと呼びます。幹は瘤だらけで直線は引けず、小枝は曲がりくねってコンパスや定規は使えない。だから道ばたに立てても大工はふりかえりもしません。あなたの話も大きすぎて用いようがない、だから人からそっぽを向かれるのです。」
荘子曰く「君は野良猫や鼬を見たことがありますか。身を低く伏して、ふらふら出てくる獲物を狙い、東西に跳梁して高所にも低所にも行くが、仕掛けの罠、網にかかって死ぬ。ところであの牛は大きいこと垂天の雲のように大きいですが、鼠をとらえることはできません。今君のところに大木があり、用いようがないと心配のようですが、それをなにも存在しない空漠の野に植え周りで気ままに休らい、木陰で腹這いに眠ることを、どうしてしないのですか。斧で断ち切られることもなく、誰からも害を加えられない。用いどころがないといって、何の悩むことがありますか!」

この逸話が面白いのは、荘子の独特の言い回しで、なんとなく荘子を批判した恵子のほうが励まされているように見えること。人文学は役に立つこともあれば立たないこともある。というか、役に立つ、とは現代社会では「消費できる」というほどの意味しかもっていないのだから、そもそも「消費」できない。

そういう文脈で、ハイデガーも荘子を取り上げていた。人文学は「消費」できるものではない。そういう意味で、人文学は、現代社会に対する抵抗の牙城になりうる。しかし、内部から腐食していっているのもまぎれもない事実であり……。不思議なことに、消費できないものも、腐りはするのである。

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