自分はテレビも見なければ新聞も読まず、当然、世間の情報に疎く、社会にはインターネットを通じてしか接し得ないが、重要なのは、ここでの言論がすべてと思わないこと。あらゆるメディアがそうであるように、人間そのものには間接的にしか触れられない。それが理解されていればいい。
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今日の社会では、情報を遮断する努力のほうがはるかに重要だ。自分のように他人の影響を受けやすい、雰囲気に流されやすい人間は、なおさらそうである。ファシズムとは場への従属であり、場はそのつど最新の情報が作り出すのだが、ファシズムの危機は、個人の水準でも、避けるにかぎる。それでネットを見ていて感じるのは、たかだか数百万の支持者が、圧倒的に見えてしまうということだ。
自分の考えでは、インターネットが生まれて以降、もう、厳密な意味での《流行》は、どこにも生じていない(徹底した在庫管理を行ったトヨティズムにすでにその兆候はあった)。あるのは、特定の情報を必要とする人間たちの集まる《島》である。たとえこの《島》に数百万の人口があっても、それはかつてのような《流行》ではない。
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たとえば《流行》の存在したかつてなら、その商品——たとえばビートルズのレコード——を持っていない人間でも、その存在を知っている、ということがありえた。だが、いまでは、同じ数の人間がある商品を所持していたとして、それを持っていない隣人が、その存在すら知らない、ということがおおいにありうる。
われわれの知っている統計学は、ときに現代の数量を誤解に導く。たとえば表に見えている10000人の支持者の背後に、その何倍もの見えない支持者がいる、などと考える必要は、インターネットの世界ではほとんどなくなっている。かつてと異なり、数字以上の広がりを背後にもたないのである。
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20世紀以前のテクノロジーは、方々の流れを集約する大河を作り出した。21世紀のテクノロジーは、海に達してしまった。したがって、物が売れる、とは、流れに乗ることではなく、海の上に島を作り出すことである。島は大きくなることができても、必然的に、内と外とを作り出す。
こうした状況にあって、かつてのような知識人も生まれ得ない。かつての知識人は方々の都市を結ぶ水路をめぐる船頭でありえたが、いまや小さな島の案内人にすぎない。イデオロギー闘争もまた、異なるものになる。同じ流れのなかに、主流をめぐる右や左の抗争があるというより、右翼島や左翼島ができていて、その内部は非常にホモソーシャルである。
もちろん、インターネットの情報を、前の世紀の発明品であるテレビや新聞が取り上げれば、ふたたび流行の芽が出てくるが、しかし、それでも流行というよりは断続的な島の形成にとどまるだろう。情報量の過剰さのために、ひとは予め知りたいことだけを知る方向にシフトせざるをえないからである。
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ともあれ、海を生きるしかない現代人は、流れに乗るというよりも、島を作る、という方向にシフトせざるをえない。ならば、課題は、いかにして、開かれた、新しい島を作るか、ということだ。個人的には、ますます人文学的であるほかないと思っている。島を作る仕事、しかもそこを開かれた島にすることこそ、人文学の仕事だ。
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