言葉は、それが言葉であるかぎり、きっとなんらかの対象を持っているはずである。対象というのは、要するに、出来事であるとか、物であるとか、そういうもののことである。たとえば、「海」という言葉は、現実の《海》を指示しているはずだし、「交通事故」という言葉は、現実の《事故》を指示しているはずだ。
だが、目もくらむほど昔の哲学者であるストア主義者は、次のことを発見した。言葉が指示しているのは、《物》や《出来事》ではなくて、「意味(セーマイノメノン)」である、と。こうした考えに思い至るために、フレーゲやソシュールを待つ必要はなかった。多言語状態を想定すれば、そしてそうした状態を常として考察する必要に迫られれば、誰でも必ずこのような言葉の限界に気がつくからである。ましてや、地理上も思想上もペルシア人とギリシア人とのあいだにいたストア主義者たちならば、である。かつて外国人といえば、バルバロイと呼ばれて、その他の動物と同じように無意味な音声を口走っている半獣の者たちのことだったが、アレクサンドロスの東征のおかげで、じつは、彼らは彼らで意味のある言葉を喋っているのだということが理解され始めた(という言い方は、彼らギリシア人に原始的で野蛮な印象を与える点でいささか語弊をを招くだろうが、そうした野蛮さは、意識していないだけでわたしたちも有しているのだし、結果的にはこういう言い方で正しいのである)。ギリシア人にとっての「犬(キュオーン)」と、外国人にとっての「犬(たとえばラテン語のカニスや日本語のイヌ)」は、もちろん別の言葉だが、しかし、現実には同じ対象を示している。逆に考えると、「イヌ」が、ギリシア人にとっては、何も意味していない以上、巡り巡って「キュオーン」が必ず現実の犬を指示する絶対普遍の言葉とは言えなくなる。「犬」という語が、必ずしも現実の《犬》を指し示しているのではないとすれば、結局のところ、「犬」という語は、犬という概念、犬という「意味」を指し示している、と考えた方がよいことになる。犬という意味に対して、言語によってさまざまな言い方がある、ということになるわけだ。
しかし、二〇世紀の構造主義者のように、言葉は現実に対応しておらず、言葉はシニフィアンとシニフィエの構造物であり、現実の対象とのかかわりは偶然である、ということだけで満足するわけにはいかない。というのも、言葉のもっている「意味」と、言葉が指し示している現実の《物》や《出来事》とは、構造主義者が考えているほど簡単に区別できるわけではないからである。もちろん、ストア主義者は、その地点では満足したりしなかった。二〇世紀のミシェル・フーコーも当然、満足していない。フーコーの『言葉と物』が、依然として構造主義に属すると考えられているのはまことに不幸きわまるし、なによりそうした読解を認めているわたしたちの方が不幸なのだが、事実上、言葉と現実とを切り離すだけで満足しているような構造主義者こそが、ポストモダニストなのである。ミシェル・フーコーのこの書物が指摘しているのは、言葉と物のつながりは、戯れであり、偶然である、しかも変容を被りつつも一定のルールに従うゲームでしかない、にもかかわらず、やはり言葉が《出来事》を示してしまう、それも不可避的かつ悲劇的に、ということの、驚きに満ちた事実なのである。わたしたちは、《物自体は不可知である》、というようなカント主義者のテーゼにとどまっていることはできない。わたしたちの《知=言葉》は、わたしたちが望む形であるかどうかは別にして、不可避的に《物》に到達してしまうだろう。ニーチェが言ったように、わたしたちは、こうした偶然の必然を探求せねばならないのだ。
たとえば、日本人とギリシア人とローマ人が《犬》をみたとして、彼らは一斉に次のような声をあげたとする。「イヌ/キュオーン/カニス」。もちろん、シニフィアンは違うが、意味内容は同じであり、どの言葉も、犬という意味をもっている。そしてなおかつ、しかも同時に、彼らが犬を目撃した、あるいは少なくとも犬を脳裏に浮かべたという出来事をも示しているのである。ここでは、事実上、意味内容と出来事とを区別することはできない。彼らがそれぞれの言語で「犬」と言ったとして、この語が現実とは必ずしも対応していないというのは、言語学的/実証史学的にはたしかに正当だし重要な指摘だが(こうした学的な思考において、「物自体」という概念は依然として有効である)、しかし、そのことと現実に生じた出来事とを混同して否定してしまってはならない。やはり、彼らはそれぞれ、《犬》を脳裏に思い浮かべたのであり、ここで彼らが思わず口にした「犬」は、歴史上で生じた《出来事=犬を脳裏に思い浮かべた》なのである。つまり、「犬」という語が持っている「意味」は、現実の犬という《存在物》というか《存在したという出来事》と、限りなく一致しているのである。
言葉がいかに貴重なものか、わたしたちはもっと深く、もっと遠くまで思いを馳せる必要がある。言葉は、誰が何と言おうと、現実と重なり合うのである。ベネディクト・アンダーソンが、出版キャピタリズムと国民国家の創設とを関連させたことは、そう間違っているわけではないのだ。このテーゼは、本質的に正しい。不幸だったのは、彼も、そして彼の議論を称賛した追随者も、言葉と出来事とのつながりを、表象/意味に還元してしまったことなのだ。国民国家が表象や意味に還元されたとすれば、悪い意味でのポストモダニストならともかく、一流のモダニストがアンダーソンのテーゼに不満を感じるのはもっともである。だが、言葉そのものが、表象や意味に還元されてしまったりはしないのである。事実上、言葉は意味を貫通し、表象にはけっして止まらず、《出来事》を指し示してしまうからだ。逆に言えば、わたしたちが日ごろ区別していないような区別を、表象に対して行なう必要がある。真理=出来事と結びついた、真の表象(ストア派の用語でファンタシアという)というものが、現実にありうるのだ。
しかし、「意味」と《出来事》とを、あるいは表象と真の表象(ファンタシア)とを事前に区別するのは、(シニフィアンとシニフィエの構造物としての)言葉と出来事を区別する以上に、けた外れに困難である。言葉を用いるわたしたちすべてに課せられているのは、こうした「意味」と《出来事》を区別する強度を、言葉に与えることなのである。……