さて、太陽のそそぐ灼熱が地上を分厚く覆っている。そんななか、選挙が近づいて、どこかの保守政治家が同性愛者について「人口生産論」的観点からなにか言っているようだが、まちがっているというほかない。同性愛も異性愛も、「愛」というその一点において肯定される。それしかない。
本居宣長はいう。「人の行ふべきかぎりを行ふが人の道にして、そのうへに、其事の成と成ざるは、人の力に及ばざるところぞ」と。それはどういう意味だろうか。
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宣長が言っていたのは、意識と無意識の区別といってもいいのだが、ひとまず直裁にいえばこういうことになる。「行ふ」とは性愛であり、「成る」とは子である。ひとが意識的にかかわることができるのは前者だけである。後者は性愛とは直接関係のない神/医療の領域である。個人にかかわれないのに、どうして国家にかかわることができるだろうか(できないと決まっている)。政治に性愛の面倒まで見てもらわなければならなくなったとしたら、そのとき日本は滅亡しているだろう。
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ところで、宣長の議論は道徳には属していない。むしろ自然に属している。「人口生産論者」は男女の異性愛こそ自然だというかもしれないが、異性愛だから子供ができるとは決まっていない。決まっているのは、一般的には人口生産の前にかならず性愛という過程を経る必要があるということ、そしてひとに意識して可能なのは性愛だけだという決定的な事実である。われわれに意識して可能なのは、同性であれ異性であれひとを愛するということだけであり、どこに向かうにせよ愛それ自身にこれからの道行を委ねるほかない。「成と成ざるは、人の力に及ばざるところ」というわけである。
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ともあれ、どのような愛であれ愛は肯定される。愛はもともと偏愛なのであって、正しい愛などない。宣長はさらに「道ならぬ恋」をも肯定している。その言葉をよくよく噛みしめるといい。
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