政治と文学――ある文学的政治家についてのメモ

criticism
2010.09.16

ここ数日ある政治家をみていて、ひさしぶりになんともいえぬ感興を覚えた。同時代人として、こういう政治家に出会えたことに対するそれ。政治家に一流などいないと思っていた自分の浅墓さを詫びたい気持ちになる。ある程度権力をもった政治家のなかでは、もともと彼くらいしか「まとも」はいないと、直感的に思っていたが、複雑怪奇な権力闘争を経てきた経歴からいっても、彼に優る政治家が世界的にどれほどいるか。学園のなかでつくられた理論ではなく、現実の実践的政治空間のなかで仕事をすることで、彼の理論は構築されている。だから、どの概念をとってもオリジナルな響きがある。その彼が、アジアの極東、辺境にある日本の、しかも与党とはいえ一政党の代表選というきわめてローカルな場所、粘着質の包囲網のなか、圧倒的に不利な状況にもかかわらず、ほとんど単身で乗り込み奮闘し、そして破れ去った。

政治家になろうとは思わないし、日本の行く末に殉じる気もさらさらない。純真だが流されることが本質の衆愚を相手にするだけでなく、某官房長官や某マスメディアなど、自らの安い策におぼれる善良な人間をも相手にしなければならないのが政治である。そのためには、言いたくないことも言わなければならなくなる。やりたくないことにも手を染めなければならない。不毛な政局を乗り切るために莫大な時間を費やさねばならない。したがって、彼――小沢一郎の発言や行動すべてに納得するというわけにはいかない。しかし、というよりはそれゆえに、ここ数日、ただひとりの男として彼をみて、それで彼に集まる権力と衆目の巨大さに納得した。選挙時の用兵や平時の事務処理力にも凄まじいものがあるのだろうが、最大の力は人望ではないか。といっても、シャイにみえる彼は、視線を自分に集めようと思っていない。むしろ自身が抱く遼遠な理想にその視線を向けさせようとしている。彼は彼だけのただひとつの目的をもち、その目的に己をささげている。ひとは彼の肉体につき従うのではなく、彼の理念を分有したいと思う。だが、それこそが、本当の人望の意味だろう。特定の個人の肉体に視線を集中させるカリスマではなく、己が目的を説得的に分有させること、政治家に必要なものはこれである。

理念に対して冷徹でその点で自分勝手な男だが、絶対に信じる道を踏み外すことがない。社会を知らないまま政治家になり、だから家族や生活のためにという発想は皆無だが、同僚と議論し、有権者と握手を交わす具体的な社交は遠ざけない。彼は敗北したが、もうひとつの対立軸を作ることにはあきらかに成功した。日本人は、かろうじてまだ政治に夢を見ることができる。彼がいなかったらと思うとぞっとする。彼以外、政治家はほとんど皆無に等しい。

結果がどうなるにせよ、政策的には彼のやりたいことは一貫している。新自由主義から社会民主主義へ形式的には移行しているようにみえるが、内実はそうではない。要は万人に公平な自由を実現するためにはどの程度のインフラが必要か、ということであって、優先順位は変わっていない。具体的な実践の場面では、レッテルはどうあれ状況に応じて政策を積み上げていく以外にはないからである。

経済的には、国家的な単位である「円」で多くのひとが現実に動いているため、この観点での規制緩和は国際市場に流動性は生まれても、「円」を強くすることには直結しない。規制緩和で利益を得るのは国際通貨である米ドルだけである。国際市場では、原則的に米ドルだけが「具体的」であり、その他の通貨は「抽象的」だからである。しかし、この規制緩和は、人間とは関係しない。

ところで、規制の目的は、具体的なものの力を抑え込むことである。具体的に人間はどこで生きているか。それは、地域である。国家において生きているのではない。国家の規制緩和は、むしろこの観点で行われるべきである、と小沢は考えている。最終審級が経済にある限りで、経済自由主義は説得力をもつ。しかしわれわれは、そんな経済決定論には飽き飽きしている。彼が考えているのは、経済の自由主義ではなく、人間の自由主義である。わたしは彼の演説を、痛烈な国家批判として聞いた。

彼は、新しい土地を作り出そうとしている。太閤検地は新しい土地の考え方を提示した。曲折を経てひとは再び土地に根差すようになった。明治の初めに生まれた統計学は土地からひとを切り離した。二十世紀に生まれた、全国一律の情報が手に入る(記者クラブのおかげでどの新聞雑誌を選んでも大差はない)ジャーナリズムはネーションという架空の土地を提供した。彼がやろうとしていることは、この一連の土地に対する思考の変革にかかわっている。その点で、全国一律のジャーナリズムを否定し、地方自治を謳う彼の政策はつじつまがあっている(ちなみに、地域通貨の試みがここに加えられていい)。

われわれは、局所化を必要としている。あえてわれわれはローカライズすべきなのだ。おのれをローカライズする勇気を持たねばならない(局所化とノマド化は齟齬しない)。局所化する、とは、内面を、自意識を、差延を捨て去ることである。具体的な場に存在するかぎり、われわれはアトムであること、点であることをやめなければならない。つまり、肉にならなければならない。それが文学の仕事である。神だって腐るということ、言葉だって腐るということ、つまり精神でさえ肉であることを、文学は示さなければならない。

彼の考えていることは、わたしの考える未来の方向性に、ある程度合致している。あと数年だろうが、政治の分野は、彼に任せておこうという気になった。彼こそ政治家である。

彼は多くの人に方向性を示した。だが、それだけで彼の仕事が終わってしまうのは、あまりにも惜しい。彼の才能を妬む者たちによって、本当に余計な血と時間とほかの多くの才能が、費やされてしまった。この馬鹿げた混乱は、マスメディアや官僚が、一枚岩になればなるほど、続いていくだろう。彼らの強固な結託は、かえって国家を混乱させ弱体化させることに、彼らは気づいているだろうか。あと数年、彼の才能を日本が使いこなす日は来るか。それを心配している。

さてなぜ、局所化が普遍性を得るのか。たとえば京都の北山に住むと考えるより、日本に住んでいると考えた方が、普遍性があるようにみえる。日本に住んでいると考えるより、アジアに住んでいると考えた方がよいかもしれない。そしてついには世界に住みかを得る、と。

しかし、それは自意識の同心円的拡大にすぎない。他者を立て、あるいは小さな目的を立て、それを弁証法的に乗り越えていくような、そうした普遍化とはちがって、思い切って逆の方向へ、つまりあえて局所化してみよう。もっとも具体的に(ハーバーマスのいうような「地域」さえ越えて)、わたしは「この土」の上に立っていると考えてみよう。不思議なことにあなたは、地球に立っている。つまり、われわれは、居ながらにして世界に場を占めている。これが文学者の考え方である。それは、政治家が考える世界とはまったく反対である。

したがって、ある意味では、文学者は「世界」を必要としない。むしろ、ニーチェのいう「世界の忘却」の方がはるかに重要であり、そしてそのことがゲーテのいう「世界文学」の意味である、とわたしは考える。要するに、「自己」を考えること、それが世界市民たることである。

われわれはどうしようもなく日本人である。日本語を喋っているからだ。日本人であることから脱出しようとして、ひとは英語やラテン語をやったりする。しかし文学者は別の考え方をする。おのれの言語を、方言をさえ越えてもっと個性的なものにすることで、それに代えようとする。つまり自分だけのスタイルを追究する。

このようにして、(特異な)日本語を話す世界市民や、(特異な)ギリシア語を話す世界市民が生まれる。もっとも個性的な言語、すなわち多くのひとに共有される意味を失った言語こそが、普遍性があると言われるゆえんである。われわれは、アトムであることをやめねばならない。つまり、その場を占めねばならない。ひとは、自分だけの言語を、他人に向かって話す。

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