政治と文学、国家の安全保障

criticism
2011.08.24

washington01

文学と政治の関係はどのようなものだろうか。かつて、文学を政治的なものから切り離そうとする運動があった。というよりもむしろ、そのことだけが、文学という運動だったといってもいい。

こうした運動は、元来は文学と政治とが、いずれも《言葉》をあつかうという点で、同一の《武器》を用いているという当然の認識から出ている。それはいうまでもないことだった。混じりけのない言葉の活動であるべき文学のなかに、政治はたえず侵入する機会をうかがっている。侵入を可能にするのは、次の言葉の定義である。すなわち、意味を共有したひとびとのあいだで用いられる社会的なもの。この定義が発動するたびに、政治はまんまと文学に忍び込む。つまり現実にはひとの命を奪うことさえある言葉という《武器》を、ルールを共有した者たちで行なわれるゲームの《道具》にみせかけてしまうわけである。われわれが握っているのは武器ではなく道具だと教え込むことで、革命の芽を根こそぎにする(そしてそうすることで革命には言葉を超える暴力が必要だと誤って思い込ませ、革命を民衆から憎悪させることも忘れずに行なっている)。そればかりか、言葉を用いるたびに、知らず現行の社会を構成する権力を補強するように仕向ける。言葉が出来事ではなく意味を指し示すなら、意味をあらかじめ決定する権利をもつ政治には、まことに好都合な定義となる。意味からの逸脱は非社会的なルール違反として摘発すればいい。社会という言葉でひとびとを内から縛り、ゲームを続ければ続けるほど、言葉のゲーム盤をますます支配下に置くことができる。

しかし、文学にとって意味は不純物である。光速で飛ぶ言葉に対する人間の感官の遅れが生み出す、残像のごときものにすぎない。こうした不純物は、文学に、おのれの純粋さに向けたさらなる情熱を生み出す。文学はこの不純物をおのれのなかから追い出し、洗い清め、そうすることで透明な翼を取り戻した文学の魂とでもいうべきものを、さらなる高みへと昇らせる。これは言葉という武器によって戦われる戦いであって、けっしてゲームではない。政治的なものを文学から切り離そうとする者たちは、むしろ言葉をたかだかゲームの道具に変えてしまう政治と真正面から戦っている。言葉がただ純粋であるというだけで、権力は致命的なダメージを受けうるのである。

とまれ、ここで確認しておくべきは、文学から政治を切り離そうとする運動は、言葉をあつかうという点で、両者が同じ場所を共有しているというあたりまえの事実から出発していることである。

しかし、この当然の前提が文学にかかわる者たちのあいだで失われれば、政治性を失った文学は、たかだか私的空間の《広場》への覇権主義的膨張を意味するか、あるいは慎ましやかではあっても広場にはあらわれぬ女子供の戯れ言にすぎなくなる。言葉は無力であるという定義を、国家を補強するとも知らず使用しつづける批評家によって、文学はますます虚構の世界に囲い込まれていく。だから文学のなかに、外科医のやり口で政治を移植しようとする、いささか品を欠いた批評にも存在理由が生まれてしまう。いまやゲーム盤と同一視されるに至った広場の外で、文学者がルール違反を繰り返しても、ゲームに加わる資格も能力ももたぬ者が許される現実外の幼稚な虚構に淫することとして、ますます文学の価値を、そしてさらには言葉の価値を低めるだけだからである。最高の価値のひとつである「純粋」と、最悪の価値のひとつである「幼稚」とが取り違えられるくらいならば、いかに品を欠いていようと、文学者が政治を口にする蛮勇を奮わないわけにはいかなくなる。子どもたちに、言葉が鉄のごとき武器となるものであるのを教え諭すことからはじめねばならなくなる。

さて、ほとんど名目上のことにすぎないとはいえ、日本には軍隊が存在しない。実質的には軍隊であっても、実践的には、やはり存在しないのと同じことである。自衛隊は、その軍事力のほとんどすべてを発揮できない。実際にことが起こっても、まったく役に立たない。問題は、本当にことが起こったとき、その次に、なにが起こるかということである。

三月十一日の大地震以来、福島で起こった原子力発電所事故の水準をみるかぎり、ほかの国家なら軍隊が出動して収束にあたるほどのものと思われた。爆発した原子炉と核爆弾を同一視することはできないが、今日の軍隊が、ほかの機関と比較した場合に、放射能に対する必要な装備をより整えていると考えるのは、不自然なことではないだろう。しかし、米軍の協力を断ったあげく自衛隊が行なったことは、爆発した発電所の上空からヘリで水を落とすことだけである(放水という主体的表現より、風と重力に行く先を委ねて落としたという受動的な表現がふさわしい)。実際の現場で作業しているのは民間人である。

日本において、国民を同じ国民が外的な障碍から物理的な(身体的な)意味で守るという意識の希薄さは拭いがたい。極端に治安に特化した国家の《防衛》意識は、軍隊の有無、さもなければ軍隊の特殊なあり方と、かかわっている可能性を考えないわけにはいかない。国家が国民の生命を守ろうとしないことが、軍隊の有無あるいは特殊なあり方と、もし関わっているのだとすれば。

天災にせよ、戦争にせよ、それが社会の外からやってくる障碍であることには変わりがない。その点では、外敵に対してこそそうあるところの国家は、いずれの障碍からも、国民の生命を守る責任を負う。しかし、日本政府が、国民の生命よりも治安を優先したのはあきらかである。実際に国民の生命に死の因子を植え付けられているあいだ、政府はそれを黙認し、言葉が武器ではないことを教え込むように、一定の放射能は人体に影響ないものと主張しつづけていた。政府は、意識的にも無意識的にも、国民の生命を守ることより、危機の隠蔽、治安の維持に努めているようにみえた。瓦礫の撤去、放射性物質の海への投棄、食品に対する放射能濃度の許容量の設定、すべてはその観点から行なわれている。そして短期で終わる内閣の仕事とはとうてい思えない「脱原発」に執心し、この内閣の果たすべき事故の収束については、一民間会社に委ねたままである。

かつてフーコーやドゥルーズが言っていたような、《安全》にもとづく近代の国家統治のあり方は、たえず変質している。この観点は、対外(空間)的には安全保障、国内(時間)的には社会保障に結晶していた。だが、大量の移民の流入や国際的なテロ組織の出現、インターネットの普及にともない、《安全》に対する国家の取り組みは変質せざるをえない。国民の同質性を維持できぬ以上、国家が領内の住人の生活を、国民という単位で生涯にわたって保障する社会的要請は鈍化していく。この方面での国家の《安全》欲求は衰えていくだろう。それにかわってますます国民の《安全》は軍隊が請け負うようになる。軍隊のあり方も変質する。国境に配備されるより雑多なひとびとが潜む都市に配備される。警察権力は広場のみならず私的空間にも侵入する。むろん、国境における警備はますます先鋭化するが、この方面でのせめぎ合いが本質的にいたちごっこに終わる以上、最終的な安全保障の担保は都市や私的空間に配備される、警察権力と軍事力をあわせもつ強力な治安維持部隊が請け負う。

しかし、日本の安全保障は、その観点からも異質なものとなる。恐るべきことだが、いまわれわれが目にしているのは、露骨な危機を政治的な言葉(言説)によって隠蔽することである。「脱原発」という言葉さえ、奇怪な政治的言説として、危機の隠蔽に利用されている(そのためか、政府の隠蔽に抗って実際の危機をリアルに表現しようとしている一部の気骨ある科学者には、文学的なものが生じてさえいる)。国民の生命を《防衛》していない点で、フーコーたちの議論から逸脱する事例とみる意見には一理ある。だが、別の見方もできる。身体的な《防衛》が適わないなら、精神的に執行する。つまり依然として国家は国民の《防衛》に執着しているのであり、その執行が国民の身体的な《安全》ではなく、精神的《安心》に向かっている。それは私的空間に警察権力が侵入することと同質の、しかしそれよりはるかに恐るべきことではないだろうか。精神的黙殺による危機の回避、それは薬物によって多幸感を与える類いの生政治の、極度に先鋭化した事例にもみえる。

今後、《安全》のテーマがその内部でさまざまに変化することはあっても、この強力なテーマそのものを国家権力が捨てると考えるのは、近代の民主政治が貫かれているかぎり、想像するのが困難な途方もないことである。民主政治が独裁者出現の危機に直面した場合にのみ、そう見えることがあるとしても、その起因はあくまで領民の《安全》を志向せざるをえない民主政治の本質にある。逆にいえば、《安全》のテーマを失った国家には、民主政治を維持する理由がない。そのとき時代は後戻りできない変化を強いられていよう。

いまは難儀な時代である。なにもかもが、破局へ向かう途上にある。古いものと新しいものとが混在している。どちらに賭けるべきか、なにか言葉を紡ぐたびに、おぼつかない判断を重ねている。わたしは戦争が嫌いな平和主義者で、軍隊はもちろん、軍隊的なものにはよりいっそう嫌悪を覚える軟弱な夢想家である。だが、正式な軍隊の存在しない日本において、内なる敵軍である原発を抱えているときに、誰がそれと戦うのか。かつて多くの民間人が死んだ六十数年前の戦争と同じように、貧しさゆえ手を挙げる民間人が、死ぬべくして戦うのだろうか。

いったい誰が戦うのか。あるいは、誰が守るのか。このご時世に戦争が起こるのを想定するとは、君は愚かと指差されようか。もちろん、ことが起こらないのが一番よい。外交的な努力はあらゆる方面から行なわれるべきだ。しかし、実際に国民の生命を脅かす事態が起こったとき、原発事故と同じことが起こる可能性を考えないわけにはいかない。自衛隊は使い物にならない。戦うのは米軍である。一部の意識の高い政治家を除き(そしてこういった政治家にはかならずナショナリズムがある)、国家側に国民の生命を守るという意識は希薄である。原発事故が起こっても、一民間会社に収束を任せつづけたのと同じように、ことが起こったときには米軍に始末を任せるほかないとしたら。

自衛隊が機能する可能性に賭けるのか。だが、それは平和主義者が望む結果だろうか。いざことが起こった際には米軍に処理を任せ、その裏で平和主義を享受しつづける。それは最悪の平和主義である。だからといって、自衛隊が文字通りの機能を実現することも、平和主義者にとっては望むべからざる事態である。ことが起こっても、こちらからは手を出さず、それに疑問を抱かないほど、国民に覚悟を求めることができるのか。その点、悲観的たらざるをえない。それほど勇気ある覚悟を民衆に強いることができるだろうか。集団としてなにを実現できるかは別にして、武器ももたずなんの抵抗もせずに死ぬことを推奨するなど、個人という観点からいえば、六十数年前の戦争で国家が民衆に強いた死と、結果にちがいはない。だからそれにかえて、ただ民衆を軟弱で臆病にすることしか、戦後の批判的知識人にはできなかった。暴力に反対し、そして頼みの言葉は目標(物自体)にはたどりつかぬ。せいぜい、実力行使を意味せぬ《デモ》を平和裡に行なうしか方策はない。それを今後もつづけていくつもりなのか。

事故が起こらないのを前提に原子力発電所を推進することと、戦争が起こらないのを前提に平和主義を貫くことは似ている。日本の領土が巻き込まれる戦争は本当にありえないのか。軍備そのものが平和を脅かす以上、それに慎重になるのは当然としても、この発想は、原発事故に備えること自体が風評を生むといっていた、原発関係者の発想と似てはいないか。平和主義を貫くなら、国民に、攻撃を受けても暴力的な抵抗なしにそれに耐える非武装の覚悟を求めるのでなければならない。そして同時に、世界にその非道を訴える言葉を磨くこと、なにより言葉が世界に届くのを確信させることができなければならない。しかし、今のままでは米軍がそれに抵抗する。それは、平和憲法の最悪の実践である。地球上もっとも凶悪な軍隊に護衛されながら、自らは非武装を気取って衰弱した平和を享受するのを、世界に臆面なく訴えることはできそうもない。

平和憲法を遠い理念と考え、そのため維持すべきという意見に賛成するとしても、条件をつけないわけにはいかない。法はたんなる理念ではなく、現実に運用される。〈遠い〉理念にばかり目を向ける知識人にノスタルジーを覚えはするが、それだけでは、卑近な現実主義のもとに理念を〈遠ざける〉政治家と、結果的にはなにも変わらない。いかにヘーゲル主義といわれようと、理念は現実に作用するし、作用されるようにすべきなのである。平和憲法は統整的理念であって、構成的に使用されてはならないなどというカント主義を振りまいてみても、そんな物言いは外部からもたらされる戦争においては、たんなるお題目にしかならない。平時には構成的使用の誹りを恐れず平和を伝道するのでないなら、やはりほとんど無意味なお題目である。

世界は抽象的な平面ではない。世界にはどこもかしこも、地理上の高低があり、歴史の因果律ともなりうる時間の前後関係がかならず存在する。それが具体性となる。この具体性なしに、ひとの足が現実に前に進むことはない。したがって、平和憲法は、いつまでも実践を遠ざけうる未熟なままの理念ではいられないし、まさに運用されるときを考えないわけにはいかない。実際に運用されるときとは、すなわち戦争が生じるときである。そのとき平和主義者がなにより恐れねばならないのは、この国を米軍が守る事態になることである。米軍の威力に依存した平和主義など、国際的にはなんの感動ももたらさない。もたらされるのは、他国からの軽蔑と憐憫、それによって防衛される国民の衰弱だけである。アメリカの憲法に日本という国家が吸収されるだけで、そのときには日本の憲法は、国家の法としては事実上失効している。平和主義を貫くことによって、かえって平和憲法が失効するということも、可能性としてはありうるのである。

《国家は国民の生命を守らない》。いまだ収束せぬ原発事故において、いままさに表面的に生じていることであり、国民はそれについて日夜怒りを表明し、デモに訴えている。だが、いざ戦争が生じたとき、平和主義の名のもと、《国家は国民の生命を守らない》という同じ事態が起こったなら、国民は耐えられるだろうか。同じ国民が、同じように怒りを表明し、デモに訴え、極端から極端へ舵をとる選択を、政府に強いることがないといえるだろうか。すなわち、再軍備を、しかも他国より強力な兵器による防衛を……。

原発が事故を起こす確率と同じとは思わないものの、今後、世界で起こる戦争が、日本を巻き込むものとなる可能性がないと言い切れるだろうか。その程度の危機意識は、歴史をやっている者なら、抱かないでいるほうが困難である。しかし、そのときに備えて、ただ平和憲法の雄叫びをあげつづけることが、平和を守ることにつながるのだろうか。むしろ、自分だけはそれを訴えつづけたという免罪符を得るだけで終わりはしないだろうか。平和主義の理念=法は、実際の法の運用者である政治家に、きわめて危ういバランスのなかで舵取りをしていくことを要求している。そして実践からは遠い知識人が、この舵取りを客席から文句を言っているだけで終わっていいものだろうか。

《いつ戦争が起こるかしれない》という根拠不明の危機を煽り、《国民を守る》という観点から軍隊の存在理由を拵えて軍備を進め、結果この軍事力がひとを戦争に導く。だからいたずらな危機意識の流布に反対する。この考え方はよくわかるし、おそらくフーコーたちの《防衛》にまつわる議論はそのような観点から読まれてきたのだろう。だが、それはあまりに浅墓な読みといわねばならない。ただ《防衛》に反対するというやり方で、《防衛》を免れることはできないからである。それはもっと無意識的なものだ。危機〈意識〉の有無とはほとんど関係がない。いたずらな危機意識を国民のうちに煽ることで、《防衛》のため再軍備と戦争の道を選ばせるくらいなら、危機意識はないほうがよく、想像を超える事態には目をつぶるのがいいと、まさか考えでもしたのだろうか。だが、それは逆である。どのみち《防衛》されるなら、危機意識はあったほうがよいのである。それでなければ、危機意識の有無を問う幼稚な議論に終始するばかりで、その質を問う議論に移行できなくなる。

平和主義の観点からいえば、ナショナリズムを煽る右側のでたらめな危機意識に正当性をもたせることは、ほとんど不可能だが、だからといって世界平和を志す左側が闇雲に危機意識を封じ込めるとしても、それで平和が実現するわけではない。原発関係者と同じ奇怪な楽観視を国民に強い、その結果、ことが起こったときの反動があれば、反動に対する反動もまだ可能な分だけまだましで、それさえなく、ただ衰弱し、平和憲法がなし崩しに消滅していく……。

繰り返すが、平和主義者が恐れねばならないのは、いざというとき、万が一、日本が平和主義を貫けたとしても、アメリカが軍事力を発揮して、日本を《防衛》してしまうことである。それはどうしてもただの《防衛》ではすまない。国際的な制裁がかならず生じる。つまり日本は手を汚すことなく、結局は日本の戦争が生じてしまう。

危機意識の不在。そののなかで進行する、学問の衰弱、芸術の頽廃、政治の混乱。ひいては人間の没落。こういった心神耗弱を尻目に、国民は究極的な事態に対する楽観視にこそ正当性があるといった観点を手放すことができない。しかし、平和憲法に反対の者はおろか、維持に賛成する者であろうと、政治家であるかぎり、そうした楽観視は許されはしない。ふたたび国家が敗戦となれば、平和憲法を護持することもできなくなる。

そこで、ほんの一握りの政治家はこう考えている。アメリカから独立し、再軍備すべきである、と。しかし、それは国連軍を創設したうえで、それに参加する形においてだ、と。それならば、国民の生命を《防衛》すると同時に、かつてのような日本による侵略的独走も防ぐことができる。おそらくこの意見は、イデオロギーを抜きにしていえば、政治家に可能なもっとも正しい判断だろうと、わたしには思える。いざというときまで問題を放置して極端に振れるよりも、ずっとましな選択である。

しかし、政治家ではなく文学者である自分はこう考える。もっと別のやり方がある。迂遠ではあっても、その分だけ崇高な道がある。戦争において、決着をつけるのも、始めるのも、回避するのも、言葉の力である。ついに言葉は、最悪にもなり最善にもなりうる、《武器》である。それゆえ、言葉の力を知っている人間は、兵器による戦争に訴えなくても、戦いそして守る方法を、すでに知っている。

戦争の危機を訴えることをすべて右翼の専売特許と考え、奇怪な楽観視のなかで米軍の庇護のもと平和主義を貫く怠慢が許されるわけがない。平和主義者こそ、唯一の武器である言葉を磨き、言葉を大切にするということができないなら、危機になにができるというのか。兵器と武器とが、根本的に異なる概念だということを、言葉の微妙な響きにこだわる文学者はよく知っている。日本が兵器という《武器》をもたないというのなら、言葉という《武器》によって、つまり文学によって戦う国にならなければならないということのはずだろう。なにゆえ兵器とともに武器の概念まで捨てねばならぬのか。粗略な議論のなかで兵器と武器とを混同して、言葉の力を浪費し、日々衰弱させ、いったい知識人は危機に際してなにをもって戦うつもりなのか。世界言語の完成の日まで、平和のため日本語によって戦うことはなにも矛盾しないのだ。

先にいったように、今はむずかしい時代である。破局に向かう時間のなかで、一義的に正しいとはいえぬ古いものと新しいものとが混在していて、どちらに賭けることもそれなりのリスクを背負う。ならば右や左のイデオロギーなど目もくれず、ただひたすら前に進めばいい。国家が守るために戦うというのなら、文学者は屈託なく真正面から戦えばいい。それが、政治を拒絶する純粋な文学者の戦いというものではないだろうかと、わたしは思うのである。

1 Comment

  • 川口武文

    2014年7月30日(水) at 0:24:19 [E-MAIL] _

    非常に勉強になりました!ありがとうございます。

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