政治と芸術

criticism
2010.04.24

知識人としては失格かもしれないが、わたしは素朴な人間で、依然として小沢‐鳩山体制には――とりわけ外交の点で――期待している(とはいえ前回の選挙でどこに投票したのかは秘密だし、今後民主党内でありうるほかの体制にはほとんど期待していない)。この政権に対する最近の逆風は、どう考えても常軌を逸している検事やマスコミのつくりだした論調ももちろんあるが、それを注意深く取り除いて考えたとしても、政治に期待し過ぎたひとびとが感じている失望に起因するところはあると思われる。だが、そもそもわたしは政治にそこまで期待していない。だからむしろよくやっているな、というか、まだなにも始まっていない、という印象のほうが圧倒的に強い。半年ちょっとでやめさせるようなことになるのなら、それこそバカじゃないかと思える。ついでにいえば、ここで民主党を非難して親米ナショナリスト(なんだこの単語は)を利するようなことはあまりしたくないし、ファシズムにより近いものを利するようなことはもっとしたくない。沖縄の基地問題にしても、わたしなどより鳩山由紀夫はずっと専門家だから、基本的に彼に任せておこうという気になっている。外野がずいぶんうるさいが、ことこの問題に関する限り、相対的にいって彼ほどの人材はあまり見受けられないように思われる。逆説的にいえば、彼はきっと、この件を五月で打ち切るようなことはしないだろう。この件にかんして、彼はもっと長期的に実現させるべき野心を持っているからである。

さて、先の政権交代で小沢一郎が成し遂げたことは、たしかに歴史上の一事件といってよいものである。民衆を主人公にするためにもっとも効果的な二大政党制をつくりあげ、それを現実化したことは、現在の人間がどう言おうと、歴史学者は必ず小沢一郎の業績に数え上げるだろう。とくに明確な冷戦期的イデオロギーをもたない小沢は、まさに戦後民主主義の申し子といっていい。というか、あまりに近いもの――たとえば眼球――が不可視であるのと同様に、彼のイデオロギーとは、「戦後民主主義」だというべきだろう。彼の強みも弱点も、その点にこそある。彼はどのような場面であろうと、というより極限状況に近づけば近づくほど、多数決の原理を崩さないはずである。

とはいえ、二大政党制は、議論を矮小化させる。民主主義である以上、本来多様であるべき意見は必ずイエスかノーか、この二つの意見に収斂される。したがって、民衆が主人公というのは結果においてのみそうなのであって、民衆がもっている雑多性・多様性は封殺される。結果として、政権交代という響きが元来もっているはずの歴史的な価値もまた、二大政党制というゲームの枠内に矮小化される。

むろん、やむをえないことでもある。結果における自由か、過程における自由か。どちらを重視するか、これは議論の分かれるところで、答えはなかなか出ない。

多くの歴史学者は、「政治」にこそ歴史があると思っている。なぜなら、歴史とは結果だからだ。そのため、ひとびとが目にする歴史はおおむね「政治」の歴史であり、天皇や将軍や総理大臣の名前を連ねていけば歴史ができあがると考えられている節がある。だが、その一方で、政治とは、結局歴史における結果にすぎないと思っているような歴史学者もいる。歴史が結果と同義であるなら、結果より過程を重視することは背理に陥るのは目に見えている。だが、後者の人々は、たとえば二大政党制を選択するに至った民衆の精神の変化のほうが価値があると思っている。つまり、歴史とは結果ではないと考えている。

こういうひとたちは、「政治」を選択しない。「政治」にはそれほど興味をもたないし、また結果に収斂されないような《政治》を探し出そうとする。彼らは結果未然のなにかを求めて歴史に向かうのであり、したがって、政治よりも芸術のほうがずっと重要だと考えている。というのも、芸術は、自然のもたらす明確な結果(痕跡)よりも、ときに残酷なその変化を捉えようとしているからだ。たとえば笑顔の美しい女性がいれば、それを描こうとする画家は、モデルとなって固くなっている彼女を描くのではなく、そのなかに笑顔を探し出そうとするだろう。その変化にこそ、彼女の本当のリアリティがあるからである。政治を重視しない歴史学者は、芸術家を同類の人間だと考えているし、また過去が目的なのではなくて、過去を手段として未来を《予言》することに興味を抱いている。つまり、かつてみたあの美しい笑顔を《再来》させようとする。

むろん、どちらが正しいというのではない。結果と過程は往々にして逆転するからである。わたし自身はつねに過程の側に身を置く人間――要するにたんなる一市民――だが、われわれが過程だと思っているものがじつは結果だったりすることは、歴史上ではよくあることである。たとえば、革命の時代には、過程と結果は反転する。こういうときには、なにをおいても結果こそ重要だと言わねばならない。というか、現に起こっている革命とは、結果ではなく過程だと言わねばならない。ところで、すべての出来事を一覧表のなかに凍結しようとしたコントの実証主義は、革命の時代、激動のさなかに生まれたものである点は、敬意を払ってよいものである。すべてが都合よく保存され、イデオロギーがほどよく硬直していた冷戦期の実証主義にひきかえ、一九世紀の実証主義にはまだ奇妙な生々しさがある。

コントは、すべての事象が結果を迎えない限り、実証主義は不可能だと考えた。この点で彼は正しい。しかし、歴史はそのすべてが結果なのだろうか。不思議なことだが、歴史は、ときに凍結された結果ではなく、熱い変化そのものとして表現されることがある。つまり、いまだ終わっていないものを表現している場合がある。たとえば歴史は、政治と芸術をその同じ身体に有していたカエサルや曹操、豊臣秀吉のような人物をもつことがある(変化のなかに身を置いている彼らは、芸術が政治の道具であるなどとは考えられなくなっている――織田信長にとって茶の湯は政治の道具にすぎなかったが、秀吉にとっては、茶の湯それ自体が政治なのである)。たとえば人類が夢見る完全な自由の実現は、不可能であったり失敗に終ったりしたのではなくて、まだそれを実現している途中である可能性がある。歴史がときに見せるこうした狂乱を知ったなら、「政治」は所詮結果にすぎない、ということも、なかなか言えないものとなる。一見両極にみえる政治と芸術は、不思議に似た顔を見せることがある。

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