「あとがき」を書きたいのだが、思考の底がささくれて整わない。昨日、酒を飲み過ぎて脳がイカれている。ブローデルが「歴史の母はテクノロジーだ」といったからだ。それでときどき思考がそっちに飛ぶ。歴史の父は、自由と、存在と……。
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昨日飲みながらした話で覚えているのが、リモートと対面の授業を両方用意すると、対面授業に学生はほとんど来ない、という愚痴。対面がないなら学費返せ!という向きもあるなか、やったらやったで、学生は来ない、という。学生の行動としてはきわめて理解しやすい。自分が学生でも、まちがいなくそうなるだろう。そして、教師は孤独だ。
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自分はもともと出席もとらないし、遅刻も途中退席もありだと言っている。やる気のあるのだけ相手にしたいし、やる気がなくても単位をもらう権利はある。なんの根拠があるのか知らないが、学校なるものを卒業するのに必要な「単位」が定められている。だが、面白い授業を「選ぶ」、面白くない授業は「サボる」のも、大学生には必要な勉強だ。
自分の学生時代を考えると、とてもじゃないが、出席は取れない。それに、コロナ禍に自分が学生だったらどうなるか、容易に想像できる。「対面授業がないなら学費返せよな」と友人とおしゃべりしたその一方で、対面授業が始まったら始まったで、教室に行かない自分の姿が。
それに、面白くないからサボるわけでもないのだ。「お、なんだ、この授業、うちにはめずらしく面白いじゃん」と思ったその次の週には、「今日はまあ、サボるか」となることがある。自分はそんな学生だった。
だから、自分の講義で、出席確認しないとわかってどんどんひとが減っても、そう思うことにしている。内心はひどくこの授業が面白いと感じているにもかかわらず、雨か低血圧か昨日飲み過ぎたかなにかでベッドから出られないのだ、と。
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学生はとにかく学費を払った。だから、大学に行く《権利》がある。《義務》ではない。その権利行使の《可能性》のために、教員は準備をする。だから、自分は、学生が出席しないことに対してとやかくいうことはできない、と考えている。大学が《自由》というのは、そういうことだ。自分の意思で、権利を行使しなければならない。
自分は、学生には、とにかくよい卒業論文を書く、というそのことだけに、集中してほしいと思っている。単位なるよくわからないものは気にせず。といってもそうはいかないから、せめて自分の授業時間くらいは、学生の《自由》な時間にしたいわけだ。そして、授業をただ熱心に受ける以上に、授業の外で、いろんなことを学んで、人間の多様性を受け止められる、幅のある精神を獲得することが、卒業論文をはるかによりよいものにするとも思っている。
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歴史学(あるいは大学)のなかだけで通用するような、そういう論文ではなく、歴史(あるいは大学)の外で学んださまざまなことを、歴史の論文に(大学に)還元してくれたほうが、自分としてははるかにいい。結局そのほうが、歴史学(大学)にとっても実りがあるのだから。
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