文体について

criticism
2003.02.03

アメリカはどうしても戦争したいようだ。記者会見に挑むパウエル国防長官の苦悩が察せられる。まったくアメリカ追随の日本だが、本当にあの政権が長続きすると思っているのだろうか。フランスやドイツの明確な反米の態度は、そこまで見越した上での判断にみえるがどうだろう。

アカデミズムにおける文体はある意味で特異であって、明治から今日にかけて、欧米の文章に接し、これを中国の哲学用語を交えつつ翻訳することで培われてきたものである。もちろん、ときに前衛的な学者によって、文学的な表現が取り入れられることもあったが、それは例外であって、アカデミズムの閉鎖性とは、この文体の問題に尽きると言ってよい。たしかに、そこには、印欧語に翻訳することが容易な文章を書くべきだという真っ当な建前があるが、とはいえ、アカデミズムにおける文体は、この建前にちゃんと合致しているとも言いがたい。

たとえば、柄谷行人の書く文章は、わたしにしてみれば(わたしの能力の範囲で)とても易々と文意を読み取ることができるが、アカデミズムにおいては、あのような文章は、「文芸批評だから許されるのだ」、となる。とはいえ、このような指摘ははっきり言って珍妙である。というのも、私見ながらあれほど翻訳しやすい文章というのもそうないからである(事実、柄谷行人は、そのことを確実に意図して書いていると思われる)。

試みに、日本において言文一致がほぼ完成したといわれる大正時代の、吉野作造らに代表されるアカデミズムの文章と、監獄で青春時代を過ごしたアナーキスト大杉栄の文章を読み比べてみると、違いがはっきりする。引用個所の選択自体に筆者の主観が入るために、公平を欠くとしても例示することは避けるが(とはいえ、ある程度全体を通して読めば確実に次のように把握されると思われる)、端的に言って、吉野作造の文章は異様に読みづらく、また、無駄な繰り返しが多いのに比べ、大杉栄の文章は、たしかに暴言が多く、くだけすぎの帰来はあるにせよ、論理的に無駄がなく、圧倒的に読みやすい。

元来、メジャーな言語(いわゆる教科書に載るような公定の日本語)は、マイナーな言語(女子高生がしゃべるような日本語……といってもよいが、むしろ詩人や少数民族、あるいはさらに精確を期せば個々人に固有の状況に応じて作られる意識において書かれた言語)を取り入れることで確立する。したがって、大正時代から見れば時間的に未来である今、吉野作造の文章を読むと、古臭く感じるのは当然なのだが、それよりはむしろ、破綻していると言ったほうがいい。というのも、言文一致が中途半端だからである。雅文体や漢文調が散在し、さまざまな文体が混交した文章は、読むものを面食らわせる。結局のところ、言語の変容(進歩)が一番遅れてしまうのが、アカデミズムなのである。「いわんや……をや。」などという表現に出くわすと、もはやこれは文学なのでは(?)、などと感じてしまう(というか文学でもこんな表現は使わないが、前近代的な意味で、文学的である)。おそらく、他方の大杉栄の文章の一人称を「僕」から「私」に替えさえすれば、間違いなく、その文体に関しては今日のアカデミズムの論文としても通用するだろう。実際、大杉の文体と、先述した柄谷行人のそれは、よく似ている。むろん、字面自体は違って柄谷行人の方がよほど穏健(というよりきわめて論理的)だし、本人は否定するかもしれないが、読後感はきわめてよく似ていると言うほかない(このような読後感は、読者もよくご存知のように初期の小林秀雄とも共通している)。

もともと文学はマイナーな言語により近い存在であって、したがって、文学者やあるいは文芸批評の分野において、アカデミズムの文章よりは、アナーキストの書く文章に近いということは、往々にしてありうることであるが、おもしろいのは、アカデミズムにおいては、マイナーな言語に近い文章ほど、毛嫌いする傾向があることである。このことは、民主政治が、今日でも政治形態のひとつのヴァリエーションであるとは考えず、進化した今日の社会においては唯一の政治形態だと考える政治学とよく似ている(そして、そのような政治学は、昨今多発している戦争に対してあまりに無力であるばかりでなく、むしろ荷担しているとさえ言える――「民主政治」を敷かない国家は永久に空爆の対象でありつづけるだろう)。

わたしなどは、個人によって文体は千差万別である以上、論理的にある程度こなれてさえいればいろいろな文章がヴァリエーションとして認められてよいものだと考えるのだが(だから、アカデミズム特有の文体も、それはそれで認められてよいだろう)、アカデミズムの門をくぐるためには、そこに合致するユニークな文体を学び、かつそれを実践することが不可欠の条件になっている。アカデミズムの外部にある真の知を学ぼうとする学生にとって、そのことは、受け入れがたい事実であるばかりでなく、きわめて瑣末な事柄に思えるだろうが、けっこう重要なことだったりするのである。もし、これをお読みの方でまだ学生という方がおられるとすれば、そのことは、学生生活を通して背負っていかねばならないアポリア(難題)であると覚悟しておいたほうがいいだろう。もっとも、最近の日本のアカデミズムは、あまりに間口が広すぎるのであって、学生にそういったアポリアを意識させないことの方が問題なのだが(しかし、だとすると、アカデミズムよ、もっとがんばれ、というやりたくもない応援をしなければならなくなる……)。

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