新しい芸術哲学のために(上) 崇高について

philosophy
2010.08.25

ryoanji

自然は固定観念をもっている。たとえば太陽は東の空から昇って西の空に沈み、蝉は夏の盛りに啼く。夜の終わりに覚めて昼の終わりに眠り、赤信号で足を止め生まれそして死ぬ。

自然界は、いわば固定観念の束である。羅針盤の針が北を向き、林檎が重力の法則にしたがって落下することでさえ、固定観念である。この束が強力に維持されているからこそ、われわれはそれを「法」として抽象化することができた。人間を含まない場合には「法則」と呼び、含まれれば「法律」や「習慣」と呼ぶ。ポアンカレがいうように、すでに科学の法則は絶対的客観的なるものを失っている。日差しと夏とを同一視する固定観念を抜け出した蝉は、夜啼くことを覚える。すべての物体が、重力に従うのでもないように。法が相対的なものにすぎないのであれば、むしろ「固定観念」の語でひとくくりにもできる。ひとがあらゆる判断の根拠としている「法」は、化学反応や末梢神経の反射とそう変わらない。そもそもひとは、連綿と続く生命の歩みの末梢神経のごときものにすぎない。

わたしは、こうした場所から思考したい。この場所でしか思考できない。つまり言葉を、しっかりと自然に参与させてはじめて、思考が可能になる。たとえば「法」は人間の所有物ではないが、「固定観念」でさえ、人間の独占物ではなかった。しかし、そうした反射と「法」とを、とくに後者を人間にまつわるものとして区別したがるひともいる(そうすることで、彼は無意識にすでにカントの側にいる)。そういう議論につけるには、《崇高》は苦く、そしてよい薬である。《崇高》とは、人間的な意味での法の破壊だからである。《崇高》は、ひとに沈黙を強いるものだ。

批判哲学の基本は、分割することである。もともと、クリティークの語源となったギリシア語は、「分ける」という語から派生している。理性と感性の混同に端を発するアンチノミーの解決を目指すカントは、理性と感性を厳密に分割する悟性の能力を人間に付与し(悟性を演繹し)、さらに感性を悟性に従属させた(コペルニクス的転回)。

しかし、この哲学にまったく従わなかったひとつの能力があった。それが「判断力」である。人間の行為には、つねになんらかの判断力が働いていると考えられる。なぜなら彼は、あらゆる可能性のなかから、ただひとつの行為を選んでいるように見えるからである。しかし、この判断力は、なにしろ悟性に従っているとは思われない。というのも、どれほど悟性に過去の記憶を蓄えたひとであっても、また物事に対する明晰なカテゴリーをもっているひとであっても、さらにまた血のにじむ勉学を己に課してきたひとであっても、実践においてはいともあっけなく誤ってしまうことが多々あるからである。それは、知的エリートばかりのはずの日本の支配層がなぜここまで愚かな判断を繰り返すのか、ということと似ている。むしろ判断力は、経験が彼に蓄積させた諸々の記憶、そしてそれをもとに対象を同定する認識能力とは無関係であると考えざるを得ない。

もちろん、多くの場合、先述した「法」に従って、ひとは判断している。これを規定的判断という。だが、これはたんに判断を他に委ねているだけ(あるいは、悟性に従っているだけ)であって、実際には、彼は判断していない。むしろ本当に判断力が試されるのは、そうした規定が存在しない場合である。この場合は自己自身が判断を与えなければならない。これを反省的判断という。カントが注目するのはこの反省的判断である。

これがもっとも試されるのが、美(趣味判断)である。というのも、美的判断は、本性上、主観的でなければならないからである。たとえば、親に決められた結婚相手を、親に決められたという理由で美しいと感じるひとはいない。美的判断は、もっぱら主観に存する。したがって、客観的な合理性はその与件から排除すべきだろう。たとえば、この女性と街を歩けば鼻が高い、というような要素は美的判断とは関係がない。結局、厳密には、あらゆる「関心」は括弧に入れなければならない――すなわちカントのいう「裁判官を演じる」ような《無関心》が、美を鑑賞するためのもっとも適切なあり方となる。徹底して主観にこだわること、それによってのみ、この判断は普遍妥当性にたどりつく、という不思議な構想をカントは描いている。

こうした関心の排除、いわゆる現象学的判断中止は、よくよくみると、美を人間の側の判断力ではなく自然の側に認めるための努力である。つまり、美から人間的なものをはぎ取っていくことである。関心を排除し、より純粋な主観を抽出することと、普遍妥当性を得ることは矛盾しない。かくして、美的判断のために必要なことは、判断中止である、というアポリアにたどりつく。それは、美的判断の権利を自然に委ねることであり、したがって美を人間じみた手のなかから失わせることである。圧倒的な自然を前にした人間の判断能力の欠如と(かつては人間の判断力のものであったはずの)美の喪失、ここで出会うのが、《崇高》であるという。《崇高》の前で、彼は裁判官の職を失う。《崇高》は「無形式」であり「不快」であり、彼の「構想力」を絶してしまう(リオタールは「限界への侵犯」という)。《崇高》は、彼のそれまでの批判哲学を裏切って、本来の批判哲学が想定すべき超越論的な判断力の不在に直面させる。そればかりか、理性と悟性とを結合してしまう。

カントの三批判を総合的に評価すべきなのか、それとも第一批判、第二批判と順を追ってみていくのかによって意見は分かれるだろうが、すくなくとも『判断力批判』は、評価に値するものである。この哲学は、ここにきてはじめて実践的な境位を得たようにみえる。――しかし結局、この哲学が美にたどりつくことはなかったようにもみえる。美学をつくり、そして破壊し、その結果あらわれたのは美そのものではなく崇高であった。ここでは、美は一種の統整的理念に似た役割は果たしている。美を追い求めた結果、そこにたどりつく寸前で、それは自身の無能力とそれを圧倒する自然がもたらす崇高にとって代わるからである。この哲学は、自身の超越論的主観を破壊する瓦礫に出会う。ジンメルが言うような廃墟/崇高である。崇高は、ひとに沈黙を強いる。この哲学が教えるのは、言葉の無力である。

しかし、この議論は、表象不可能性というゼロ地点にむかって収束する。言葉はついには無力であり、あらゆる多様性をこのゼロが飲み込んでしまう。ここでは、芸術、すなわち多様なものの開花は期待できそうもない。われわれの世代は、もっと別種の哲学を必要としている。

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