時代区分について

history
2014.08.21

時代区分とは何だろうか。

歴史学者の縄張りみたいなものだろうか。あるいは、協同を前提にした、一種の分業のようなものだろうか。さもなければ、ひとりひとり専門領域をもつ学者に対する遠慮が形づくっているのだろうか。現実的には、そうした傾向は強くあるにしても、あえてとりあげる必要のない現実である。とりたてて批判する必要もない。時代区分とは、ある人間的な時間軸のなか、ひとの形づくる社会が異なる傾向を示していることの、歴史学的な表現である。それらはおおまかに、三つに区分される。すなわち、古代、中世、近代である。

科学であるところの、したがって近代の歴史学は、とうぜん、こうした区分を対象の側に認めてきた。歴史の対象となった当該社会自体が示している変化をもって、この区分を帰納的に構成したのである。この時代区分が世界史的なものか、それとも各国ごとに示されるのかはいまだよくわかっていない。ただ、この概念を科学的なやり方で示した近代ヨーロッパおよびマルクス主義の伝統にしたがうなら、それはある一定の普遍性をもつものである。

一般に、ヨーロッパ人にとっての古代とは、ギリシア・ローマを指す。すなわち、キリスト教以前の社会であり、キリスト教をなんらかの形で批判した近代の社会が理想としたものである。とうぜん、近代はそうした理想の再生、あるいはさらなる顕現であるわけだが、必然的に、それら古代と近代のあいだが中世と名指されることになり、それは、たとえば「暗黒の」などといった形容詞をつけて語られるキリスト教の時代、封建社会の時代を意味しているわけである。

マルクス主義は、こうした時代区分をさらに厳密化して意味を与え、歴史を、所有をめぐる一種の物語として描き出した。理想的な原始社会における無所有=共有の時代から、王や天皇などと呼ばれる、ただひとりだけが所有権を有する古代、そして封建領主が生まれて少しずつ所有者を増やしていく中世、そして誰もが所有権をもつ近代である。こうした物語はアジア各地の大帝国においては頓挫するものの、極東アジアおよびヨーロッパのいくつかの国では、中世から近代へと発展を遂げた。「世界史の基本法則」と呼ばれた彼らの議論は、世界中にひろがり、そうして形成された歴史学のうちには、もちろん、日本のそれもあてはまる。日本の歴史学は、マルクス主義を中心にして形成され、そして充実したのである。

こうした議論は修正を繰り返しながら、ついに上記の現実的分業を示す以外にはあまり役に立たないものになりはてていった。歴史の進歩や発展といった、時代を貫通するひとつの物語を描こうとしないのであれば、そうなるのは当然のことである。進歩や発展を信じるのか、それとも信じないのかといった点も含めて、おおいに再検討が繰り返され、こうして時代区分はかぎりなく形骸化した。

歴史の対象がもつ時代的な傾向は、たしかにあるように思われる。主観と対立する「対象」というかぎりで、それは厳然たる科学である。だが、それが古代や中世と呼ばれ、あるいは近代と呼ばれるべきなのかはわからない。たんに時代A、時代Bといったほうがよく、時代間の物語的連続性をみてとるよりも、そうした連続性を批判する方がはるかにたやすいものである。歴史には、批判的な学者の取り上げたくなる例外が溢れているからである。

学者の主観にしたがわぬ客観的な対象の多様さを眺めていると、はたして時代区分の連続的な配置や、あるいは世界大の時代などを考えることは、誤謬を生むような気がしてくる。だから個々の領域を狭め、そして厳格に隣接区域との関わりを断ち切っていくことで、なんとか時代なるものの客観性を確保しようとする。それでけっきょく、時代という用語を使う意味を摩耗させる。

さて、すこし発想を転換してみよう。時代区分は、はたして、歴史の〈対象〉から帰納的に導き出されたものかどうか。

時代区分など演繹的なものにすぎず、前提を対象にあてはめているだけであって、現実にはそのような区切りは存在しない、といってしまうのはいともたやすい。だがそれでは、時代区分になんの生産性も認められなくなる。時代区分を職業的分業の意味に堕落させている現実を非難することが、いかにも正しく映る。しかし、わたしがやりたく思っているのは、もっと不思議な帰納である。いうなれば、人文学的な転回である。すなわち、歴史を実践しようとする人間自体が、そのように過去を区分してしまう傾向をもっているのではないか。

人間を検証していくと、どうやら、自分たちの過去は、だいたい三つに区分できるように思われる。すなわち、生まれてから物心つくまでの、自分の記憶にはない、しかし確実にあったと思われる幼年時代。そして物心がつき、したがって自分の記憶を確かに有しながら、いまだ大人の保護のもとで、ときに反抗しながら生きていた少年時代。そして大人になり、直近の記憶とともに、現実の社会に参加する青年時代である。記憶にない、すなわちもう忘れてしまった自分の過去、記憶にある自分の過去、そして現在の自分に直接繋がっている過去。これら三つの様態が個々人の記憶において区別されていないと考えるのは、とても困難なことである。しかも奇妙なことに、それらは、古代、中世、近代の区分に、その対象に認めていたはずの意味もふくめて、完全に合致する。すべては親の所有物であり、その所有物を借りて生活していた古代。親の所有物のいくつかが、自分の所有物となる中世。そしてついにあらゆるものの所有者たりうる大人=社会人を可能にした近代。つまり時代区分の普遍性は、対象にではなく、過去を紐解こうとする人間自身にもとづいて、つまり主観的でありながら、しかも普遍的なものとして、成立しうる。《時代》という、人間が国家をはるかにこえる規模で形成しうるもっとも大きなものが、もっとも小さな、たったひとりの人間の人生のうちに展開されているかのように。

その証拠に、かつては近代と呼ばれていたルネサンス以降の歴史は、次第に「長い近代」と呼ばれて、フランス革命以降の「短い近代」とは区別されるようになった。というのは、現代人にとっての直近の記憶とは、まさにそのあたりからはじまっているからである。江戸時代と日本の近代との連続性をみてとっていた内藤湖南は、西洋との違いをふまえ、江戸時代をあえて「近世」と呼んだ。いまでもその区別は残っているし、対象はどうあれ、彼がその区別をつけられると考えたこと自体が、近代への道のりの日本の独自性を示唆していて、興味深い。だが、おそらく、現代の多くの一般人にとって、江戸時代は中世であろう。江戸時代と、鎌倉時代や室町時代との区別をつけるのは、そんなに簡単ではない。すくなくとも、明治時代と江戸時代とのあいだにつけているような劇的な区別を、同じサムライが統治していた室町時代と江戸時代とのあいだにつけるのはむずかしいはずである。その意味では、今後、中世は、対象とはかかわりなく、いくらでも伸び縮みするだろう。あくまで近代とは、現代を直接可能にした時代の呼び名だからである。

思えばアリストテレスは『詩学』において、悲劇について、こんなことをいっていた。

さて、全体とは、初めと中間と終わりをもつものである。……それゆえ、巧みに組みたてられた筋は、勝手なところからはじまることも、勝手なところで終わることも許されず、いまあげた形式(初め、中間、終わり)を守らなければならない。

悲劇における形式が、人間の事実の歴史にもあてはまるということを、われわれはもっと強く意識していい。こうした人文学的な時代区分を信じるなら、それは、歴史家ごとに、異なる形でありうべきものとなるだろう。ただ、それは事実の物語として、たとえば能のごとき序・破・急のような三形式と似通った、古代、中世、近代の三区分になることは、ほとんど確実である。人間の記憶の形式が、そうした事実の時間の三区分を要求しているからである。

こうした人間の時間感覚にもとづくなら、おそらくポストモダニズムにも、一定の普遍性を認めてよいと思われる(また生前の世界を想像する神話の時代も認めてよい)。それが老いを意味するのか、それとも若さへの憧れ=転生を意味するかにかかわらず、ひとは現代を離れて未来に夢を描くものだからである。その意味では、わたしは、永久にポストモダニストであろうと思う。歴史への愛が深まれば深まるほど、過去の美しい人間、英雄たちをみるにつけ、現代などまっぴらごめんと思うからである。

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