暴力と自殺とは、きわめて密接に結びついているように思われる。自殺は、暴力の一種であり、とりわけ自己に向かうことで《関係》を破壊するような暴力である。自殺者は、いったい、何を主張しようとしているのか。暴力が、《関係》を破壊するかぎりで暴力でありうるのだとすれば、彼はいったい、どのような《関係》を、破壊しようとしているのだろうか。もろもろの自殺が主張している、さまざまなメッセージが織りなしてできる響きを、できるだけ耳を澄ませて聞き取ってみよう。
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今日、社会はひとつの権力構造を構築することに成功している。すなわち、勝者と敗者とに分割される構造であり、社会内に敗者を作ること、いいかえれば勝者が勝者であるために必要な犠牲者を生み出すことを、肯定する社会構造である。というのも、勝者の背後には、必ず彼が屠ってきた敗者がいるからである。勝者は敗者と必然的かつ相補的に存在するのだ。こうした社会においては、勝者は一方的に富を独占するにもかかわらず、敗者なしには存在することができない。この点で、勝者はじつは敗者に依存している。したがって、その意味では、この社会においては、敗者は必然的に承認され、そしてその内部における存在理由が与えられる。この点にはきわめて注意せねばならない。
なぜ注意されねばならないのか。それは、こうした社会構造は、いくら見かけ上ナショナルなものを装おうとも、けっしてナショナルな社会を作り出すことに成功しないからである。むしろ、この点では、社会はあくまでインターナショナルなものとして認識され、ネグリ&ハートが論じているような、万国のブルジョワと労働者たちによる階級闘争を語ったマルクス主義的な議論、あるいは古い左翼に再度活力を与えるはずであるし、実際に活力を与えている。そして、その見かけにもかかわらず、高橋哲哉のような「責任論」が影響力をもつのは、こうした古い観点においてである。
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ナショナルな社会においては、じつは、当の社会に存在しているすべての成員に、同等の勝利が与えられる。この場合、敗者は承認というよりは末梢記号を与えられる。つまり、たんに認識の埒外に置かれる。要するに国家によって黙殺/抹殺されるのである。そうすることによって、とにかく形だけでも、すべての国民を等しく救う格好を整えるのである。したがって、見かけの上では、敗者はおろか、勝者も存在しない社会となる。これがネーション=ステートである。
高橋哲哉は、日本の元防衛庁長官の次のような言葉を引用している。
国家の安全のために個人の命を差し出せなどとは言わない。が、九〇人の国民を救うために一〇人の犠牲はやむを得ないとの判断はあり得る(朝日新聞、二〇〇三年六月三〇日、高橋『国家と犠牲』NHKブックス、二〇〇五年、二〇九頁より再引用)。
しかし、一部の国民の「犠牲」を肯定するこうした議論(あるいは今日の靖国問題)と、戦前の「靖国」のナショナリスティックな論理を混同することは、歴史学的にも理論的にも許されるものではない。というのも、戦中の国家首脳は、こうした《一部の犠牲》を、けっして公表したりはしなかったからである。彼らはあくまで、一億総玉砕、一億総懺悔という建前を崩さなかった。総動員体制を作らねばならなかったからである。靖国の論理は、徹底してナショナリスティックな議論においてこそ、有効に機能しえたのである。上記のような、今日の政府首脳にみられるあまりにも露骨な身振りは、こうしたナショナルな議論とは相容れないものなのである。
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百匹の子羊の群れのなかから、一匹の子羊がはぐれたならば、国家は、つねに残りの九十九匹を助ける算段をする。つまり一匹の子羊を犠牲者として肯定する。国家はつねにこうした功利的な計算にもとづいてのみ、行動しようとするだろう。
古代から中世にかけての時代でいえば、これがカエサルの論理である。その一方で、一匹のさまよえる子羊を選ぶイエスは、まさにこうした論理を批判しようとしたのである。だが、このことは、結果として、次のような役割分担を準備したと考えられる。すなわち、国家が《全体》を統治するならば、宗教は《個人》を統治する、というわけである。このようにして、近代以前には、国家と宗教は機能的に区別され、また現実的に住み分け、なおかつ相補的に共存していたのである。
だが、近代においては事情は異なる。こうした相補的な権力構造が作り出した悲惨な宗教戦争、そしてそれによって生じた宗教改革は、ひとびとに既存の宗教からの離脱を促したからである。それと同時に起こった、民衆の経済上の自立は、次のような着想を可能にした。すなわち、百匹の子羊(全体)の行動と、一匹の子羊(個人)の行動は、一致されうるし、また一致されるべきである、というものである。
こうして経済思想と倫理思想が合致する古典主義経済学が生まれ、かくして国家は百匹(そのじつ九十九匹)の子羊と、一匹の子羊の面倒を同時にみることになったのである。部分と全体の有機的統合。それは、裏を返せば、宗教的な機能を国家が受け持つことを意味するのであり、それこそが、ナショナリズム――すなわち、国民国家の思想的基盤なのである。
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原則的に、戦前および戦中の靖国の論理は、宗教ではなく、あくまで諸々の宗教を超越し、また同様にあらゆる学知を超越した国家と完全に重なり合うようにして、いわば国家の内部に取り込まれる形で存立している。こうした国家による宗教の吸収によってのみ、近代のナショナルな原理はその機能を十全に果しえたのである。したがって、一部の犠牲者のうえに築かれた勝者たちの国家という発想は、結果はともかく建前上はけっして取らない。一匹の子羊すら、はぐれることは許されないのだ。罪人にせよ、狂人にせよ、さまよえる子羊を扱うのは、けっして宗教ではなく、病院や監獄、すなわち国家装置である。先にもいったように、ここではあくまで、総動員体制を構築することに重点が置かれるのだし、戦後には一億総懺悔というようなことが説かれるのである。ネーション=ステートの理論的配置においては、いわゆる「戦争責任」は、天皇はおろか、一部の政治家がとるものでもあってはならない。あくまで、国民のすべてが、その責任を分有しなければならないのである。
戦前と戦後の靖国の論理を、「犠牲」のひと言のうちに混同してしまう高橋哲哉は、あきらかに上記の区別を認識していないか、あるいはその必要を感じていないようである(その意味では、戦争の記憶の「忘却」を非難する高橋の論調には違和感を覚えざるをえない――戦前の靖国と今日の靖国問題を同一視してしまう彼は、いったいどのような資格で、自分の記憶の正当性を語っているのだろうか?)。だが、こうした区別は、今日の言説空間を生産的に規定するためにはきわめて重要であるように思われる。結果はともかく主観的な意図においてはナショナルなものを追求しようとする右翼的なひとびとは、自ら進んで犠牲となるような――言い換えれば、あえて国家首脳が犠牲を説く必要のないような人間を作り出すことを欲望する。他方の左翼陣営はといえば、そうした右翼の議論をナショナリズムとして批判しながら、表向きはすべての国民が犠牲者となることのないような国家――すなわちネーション=ステートを作り出すことを欲望し、国民の総てに応答責任=「戦争責任」がある、などといった一億総懺悔にも等しい古いヒューマニズムを振り回すのである。要するに、右も左も半分ずつ間違っているのである。そしてこの誤解の原因のほとんどすべてが、今日の社会の分析に必要な区別を設けないところにあるのである。
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興味深いのは、双方とも誤解からだが、いずれにしてもナショナルな社会を欲望している点である。この状況下で《戦争》が作用すれば、ますます社会はファシズムへと傾斜していくだろう。だが、こうした社会が実現するのは、右翼が実現した教育の産物であるところの国民と、左翼の主張する反国家的な(そのじつ国民国家的な)思潮とが合流するときであり、おそらくは五年か十年か、あるいは二十年は先のことだろう。現時点で喫緊の議論は、こうした長いスパンの議論とは別個に構築する必要がある。
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長い寄り道をしたが、議論をもとに戻そう。
さて、表向きか、そうでないかは別にして、結局は、必ず一部の人間に犠牲を強いるような《国家》と、その国家の成員を勝ち組と負け組みとに区別するような思潮とが合致するとき、国家権力は、必ず、その内側に敗者を作り出さざるをえない。つまり、国家が勝者を肯定する以上、一貫して敗北し続けるような弱者を必然的に生み出すのだし、またそうした弱者なしに国家は成立し得ないところまで追い込まれる。なにしろ、国家は一握りの勝者の支持によって支えられているからである。
弱者と敗者とのあいだには、本来であれば、もっと厳密な区別を設けねばならないだろう。弱者と敗者(あるいは強者と勝者)とを区別するか否かによって、これまでみてきた二つの国家形態は区別されるのである。かつてのネーション=ステートにおいては、弱者は必ずしも敗者と決まっていたわけではなかった。むしろ弱者は、すべての子羊を平等に扱うために、すなわち国家の《全体化》を実現するために、率先的に救われるべき対象ですらあったのだ。弱者と敗者は、けっして同一視されてはならなかったのだ。
だが、今日の国家形態はそうしたことを望んでいない。弱者は、それに打ち勝った強者がイコール勝者であるためにも、敗者でなければならない。弱者は、敗者なのだ。
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学校は、国家をモデルとし、ときに先鋭化した国家として現われることがある。教室における教師と生徒の関係は、おそらく、今日しばしば現われる国家の最小の現実態のひとつなのである。そして一部の犠牲を肯定するような国家の姿勢は、必ず各地の教室にも影響し、悪いことには現象する。そこでは、子供たちは、「勝ち組」に入るために、こぞって弱者を探し出して、彼らに「負け組」の刻印をきざむだろう。すべての子供たちが、勝ち組に入ることにこだわっているわけではない。むしろ、負けなければそれでいいという程度にしか考えていないのだし、まただからこそ、ひと時の「安心」(「安全」?)を得るために、結局はすべての成員のなかでもっとも弱い者に、致命的な敗者の地位を与えるのである。
また、教師は、かつてのように、少なくとも表向きにすら、そうした事態を否定しようとはしない。むしろ率先して追認するはずである。なぜなら、こうした弱者を「敗者」として規定することによって、生徒たちに安心が確保され、教室は秩序が保たれるからだ。そしてなにより、教師は、自分が「負け組」の地位に転落する可能性すら感じているだろう。おそらく、教師はこう考えているに違いない――一匹の子羊を犠牲にすることで、九十九匹の子羊(ここでは九十九匹を百匹だと偽るようなネーション=ステートの巧妙さは影をひそめ、文字通り九十九匹である)を救わねばならない、わたしが一匹の子羊と運命をともにするなど、あってはならないことだ、と。
かくして、勝者による敗者への《暴力》は、教室の秩序を維持するための《権力関係》として固定される。かつてのネーション=ステートのように、弱者を救済することで、当の弱者を国民へと組み込んでいくような作用を教師に期待することはできない。教室の《全体化》が教室の秩序を維持し、ひるがえって教師と生徒との権力関係を維持してきた時代は終わっている。むしろ、教師は積極的に勝者と敗者の区別を設け、それを幾重にもなぞり、強化しつづける。そのことだけが、教室の秩序を維持し、そして教師と生徒の権力関係を維持するからである。
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こういう状況下で、子供たちにできることはかぎられている。もとより弱者であった彼らは、こうした《権力関係》を打破することのできる唯一の暴力を選択する――すなわち、自殺である。