暴力について(メモ)

criticism
2007.11.04

どうも最近、メモ書きが多くなって申し訳ない。メモと書かれているのは、基本的に自分用に書いているのだが、にもかかわらず、こうした場所に書くのは、自分に緊張感を与えるためであり、また同じことだが、メモにもある程度責任をもつためである。この点はメリットだが、逆に、こうした物言いは、自分がわかればいいという観点から、すべてを表現する、ということがないために、つねに暗示的になってしまうというデメリットがある。そのため、できるだけ端的に宣言しておこう。わたしは国家を暴力装置として概念規定する議論を批判しようと思って、これを書くのである。

さて、わたしは、実感としては、次のように感じる。《暴力》は、きわめて具体的な物質の変更を伴うのであり、その点では、きわめて可視的なものであるし、またそうでなければならない(その意味では、暴力は《自然》に属する)。逆に、《権力》は、じつは可視的であるにもかかわらず、不可視とみなされているようなものである。というのも、権力を感じる、とは、具体的にそれとは言えないにもかかわらず、なにがしかの《暗示》によって、他者に行為を強いられることだからである(権力とは暴力の屈折あるいは遅延であり、この屈折・遅延を《文化》と呼ぶ)。

その点から考えるなら、国家が国家であるのは、むしろ、暴力を溜め込んでいて、なおかつそれを使用しないことから来るのであり、たとえば、警察や軍隊という巨大かつ潜在的な暴力装置を保持していながら、それを使用しないからこそ、わたしたちは、それを国家的であるとみなすのだ。用語に注意していえば、国家は、暴力を《可能性》として保持することによって、出現する。したがって、これを逆転させて考えれば、国家が暴力を振るっているとき、それは、むしろ、国家であることに失敗しているのである。暴力を振るうことによって、国家は国家というよりは、諸々の諸力が開示されるアクチュアルな闘争の場に引き摺り下ろされるのである。だからこそ、歴史上のあらゆる革命は、まず、国家からなんらかの形で暴力を引き出すことによって、はじめて可能となったのであるし、またときに戦争に勝利した国家さえも滅びる場合があるのは、戦争が、暴力の溜め込みではなくて、暴力を発露してしまうからである。つまり、じつは、暴力の発露する瞬間は、危機であると同時に最大のチャンスでもある。

逆にいうと、国家を暴力装置であると規定して批判することは、かえって国家が現に保持している《暴力》を使用(=縮減)させず、それを溜め込む契機を生んでしまう――つまり国家をより《権力》的に強化してしまうという逆説を生み出してしまう。もちろん、暴力は使用させるべきではないが、かといって、溜め込ませるべきでもない。そこからいえることは、国家の起源は、暴力そのものではなくて、そうした力が溜め込まれるとき――つまり、暴力が(マルクス的な用語でいえば)抽象化され、権力に変化する瞬間に、一挙に現れるのである。暴力がつねに使用されている限りは、国家は発生しない――だからこそ、潜勢的であろうが、現実的であろうが、諸々の諸力がつねに開示されている自然界では、国家は発生しづらいのである。

さらにいえば、本当は見えている《権力》を、具体的に見えるようにすることは、じつは権力を暴力に変更すること、つまりその力を振るわせることなのであって、こうした試みは、国家の力を縮減すると同時に、結果的に国家を健全にもするのである。

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