極端な世界

criticism
2006.02.07

今日、わたしたちの眼前に広がっているのは、極端な世界である。インターネット上に流れた、処刑される人質の映像は、現実であると同時に、非現実である。肌も露わなアメリカ女性と、ショールをまとったアラブ女性。あるいは、女性はもはや隠すべき肌をほとんどもたず、他方で男性は女性に服を着せて快楽を貪っている。極端にグロテスクな身体と、極端に着膨れした人形、これら二つの身体が作り出すイメージこそ、今日の人間像である。

現実と非現実が、なんの媒介もなしに隣合わせである。このことは、インターネット上で繰り広げられている、エクリチュールとパロールの極限に近い一致、この新しい言文一致世界にもっとも典型的である。声と文字とが、ほとんど同じものになったようにみえるこの世界は、必然的に、直接民主制を夢想させるだろう。“人間は喋る動物である”とウィトゲンシュタインは言った。つまり、《人間》の知は、「話」ではなく「書」に結晶している。なぜなら、「話」は《動物》のものだからだ。すなわち、「書」がすべての人間に拡散したときこそ、すべての人間が《人間》となる、直接民主制にほかならない。

だが、この夢想は、やはり夢想に過ぎない。話し手に対して聞き手がいるように、書き手に対してはつねに読み手がいる。“書き手”たちが、直接民主制の夢想を貪っているそのときこそ、その夢想の周囲に、直接性を奪われたもうひとりの民――“読み手”――がいることを、想起せねばならない。わたしは知っている、“書き手”たちが一方的に役割を押し付けている“読み手”たちは、しかし、読まないかもしれないことを。こんなことは当たり前のことである。ひとは、民主主義の間接性から逃れることはできないのだ。こんな夢想は、だから、すぐに破綻する。

ヴァーチャル・リアリティとはよく言ったものだ。仮想世界と現実世界の極限の一致、この新しい、そして不可能な《自然主義》は、必然的に、つぎのステップを用意する。すなわち、《媒介》、そして《間接》性の重要性である。ひとびとは、じきに“中庸”に価値を見出し、脱構築の意義を、“中庸”に近い意味に変えてしまうだろう。ひとびとは、わたしとあなたの絶え間ない対立を客観視する、ある地平をすぐに獲得するだろう。アメリカも、アラブも、両者ともが間違っている、キリスト教世界も、イスラム教世界も間違っている。大事なことは、“中庸”なのだ。第三項の発見、三人称客観の発見。

おお、なんと恐ろしい。わたしたちがこれから経験することになるのは、新しい《自然主義》よりももっと恐ろしい、巨大なヘーゲル主義なのだ。怪物(スフィンクス)よりももっと恐ろしい、《人間》なのだ。彼らは、ジャック・デリダの仮面をつけ、《人間》のすばらしさについて語り始めるのだ。彼らは、ナレーターとなり、どこかしらにあるはずの地平から、《人間》を見下ろし、そして語るのだ。オイディプスの悲劇について、語り始めるのだ。

第一の悲劇よりももっと恐ろしい、第二の悲劇。だが、わたしは笑う。こんなことは、すでに経験したことだからだ。三人称客観の発見? そんなものは、西欧人の、ファーストネーションに対する傲慢と同じ、現代人の、過去のひとびとに対する傲慢である。ファーストネーションたちが、すでにアメリカ大陸の存在を知っていたように、過去のひとびとは、わたしたちよりも先に、三人称客観の存在を知っていたのだから。

文学の再生は、目前である。今日の《自然主義》文学を批判対象として、すぐにも、新しい文学が再生するだろう。だが、わたしは、危惧する。《自然主義》は批判すべきだが、捨て去るべきではない。“中庸”が、そして“三人称客観”が覆い隠してしまう真実が、そこにはある。裸の人間――《動物》が知っている真実が、そこにはあるのだから。

だからわたしは言う、夏目漱石になるな、志賀直哉になれ、カントになるな、ニーチェになれ、デリダになるな、ドゥルーズになれ、と。

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