アナーキストに保守主義や貴族主義を見出すタイプの議論がある。たとえば、芥川龍之介の大杉榮評がそうだった。彼は大杉の死に対して、冷淡なコメントしか述べていない(作家のなかでは、いうなれば貴族である志賀直哉は多大な同情を寄せている)。マルクス主義にせよ、ポストモダニズムにせよ、(新)自由主義に対抗するフラットネスに可能性を見出す議論に比べると、アナーキズムには「高さ」の概念が目につくのだろう。
しかし、「高さ」の概念を解消するフラットネスだけでは、どうしても有機体の概念に引き寄せられてしまう。完全に上下関係を欠いた状態でなんらかの秩序を実現しようと思えば、なにか別の要素を付け加えざるをえないからである。有機体(あるいは弁証法)は、絶対主義的な国家とは異なる《自然な(科学的な)秩序》を社会に導入しようとする際に持ち出される。その有機体や弁証法に対して、アナーキストは否定的である。有機体というよりは、個人のなかに不均質な「高さ」を認める(たとえば「戴冠せるアナーキスト」)ことで、それに変えようとする。アナーキストが導入する「高さ」の概念は、有機体なしに済ませるためのひとつの条件である。この「高さ」が、ひとによっては保守的に見えてしまうのだろう。
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平面的なデータの集積である実証主義(科学)を担保しつつ、そこに擬似的な高さを与えようとしたのがカントである。神の喪失。それは、まさにフラットネスの到来である。逆説的にも、それは今日、さまざまな形で持ち出されるフラットネスよりはるかに深刻だったはずだ。それに対してカントがひねり出した結論は、《超越論》である。彼はあるかなきかの精神を宙づりにすることで、それに答えようとするだろう。
暗にフラットネスを認める《超越論》と比較すると、《崇高》は、そのはるか上空にある。それは、観念的理想的にもたらされたフラットネスを打ち破る《もの》の高みだからである。本来なら、カントの試みは逆転せざるをえなかったはずだ。データを集積する実証主義とそれに価値を与える超越論は、ここで何らかの形で塗りかえられざるを得なかったはずだ。
ニーチェの世界は、はじめからここにある。したがって、彼は、一度「没落」せねばならなかった。高みから降りるところから、ストーリーは始まる(そして彼はストーリーの要所要所に垂直の運動を配置することを忘れない)。この観点からいうと、昨今喧しい議論のどこが新しいのか、面白いのか、よくわからない、というのが率直な感想である。二十世紀末以降のフラットネスと質は異なるとはいえ、その衝撃からいえば匹敵するかそれ以上のフラットネスを、十九世紀の社会はすでに経験している。実証主義という用語がナイーヴな「データベース」という用語に変わった以外は、とりたてて新しい事件だとはいえない。もちろん、部分的には面白い議論もみられる。だが、なぜそのゴージャスな議論をそんなところで拙速に使ってしまうのか、という感が否めない。エウリポスの激流をさらに混ぜ返す無意味を、そこに付け加えることにしかならないのは明白ではないか。
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実証主義が集積する個々のデータには、実際には均一でない高さが内包されている。これが主体と呼ばれるものの実質である。この高さをデータから切り離し、統計的に平均処理したものが国家と呼ばれる。差異を統計的に平均化(フラットに)する手法を学んだ近代国家は、ある程度の逸脱ならば、むしろ自覚的に遊ばせておくことを選ぶ。健全な状態では、(国民)国家はむしろそれによって力を増す。これを自由主義という。
ある程度まで「高さ」を許容するこうした主張を貫き通せるのは、一部の覇権国家のみである。というのも、この議論は、暗に無限の富が世界市場にあることを前提しているからであり、ここで行われる平均処理は、個々の主体が資本主義市場のサイクルに完全に従う賃金労働者であることを前提しているからである。実際には、世界の富が無限などということはありえないし、たとえば失業者がそうであるように、すべての人間が資本主義市場のサイクルに従属的であるともかぎらない。したがって、こうした自由主義を十分に実現できるのは同じ時点で最強の覇権国家だけである。この国家は、他国に対し、まずは資本主義を受け容れさせる。そしてさらにはおのれの無制限な自由を認めさせる。それによって国家の平均的膨張を実現しようとする。
絶対的高みからひとの低きに向かってなされる神の「恩寵」から、フラットな成員同士の公平な分配という「正義」に問題関心が移行したのが近代である。そういう時代に正義を実現するひとつの方法が、不均一な「高さ」を促しつつ回収し、それを平均化することである。この「正義」は、不思議なことに国家の帝国主義的膨張に結実するのであり、逆からいえば、帝国主義的膨張にはそれなりの「正義」がある。
むろん、別の正義もある。そしてたいていは先の「正義」とこの別の正義のミックスによって政治経済は成立している。すなわち、「高さ」を認めないことだ。こうしたフラットで協同主義的な正義は、十九世紀から存在するが、こうした正義を選択する理由にはさまざまなものがある。ひとつの極はそもそも資本主義体制を受け容れないこと、すなわち「自由な」平均処理を拒絶することであり、もうひとつの極は、覇権国家に圧迫されて平均的膨張を実現するに十分な「高さ」を得られない場合である。
これらの国家では、結果的に逸脱を遊ばせる余裕がなくなり、まもなく差異の統計的平均値は下がっていく。ここで市民の側が国家の弱体化を望みフラット化を選んでも、国家として衰微することはあっても、実際に滅亡したりはしない。むしろ「高さ」を吸収した国家権力だけは肥大化し、死に臨むことになるのはたんに低い位置で均衡している市民である、という結果に陥る(ロールズやサンデルたちの議論は、基本的にこの二つの正義のあいだの弁証法でしかない)。
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本質的かつ現実的には、国家は最初の「正義」以外に選択肢がない。つまり共同体成員にある程度の自由を認めつつ全体として(つまり統計的平均としては)膨張しつつ公平を実現する、という選択肢しかない。後者の「正義」はあくまで、失業者の増加のように、平均値の弾力に影響を与える場合にだけ適用される。
このことから逆にいうと、国家が自由を認めるのは、ひとがその本質を平均処理の網にかけることを認めるかぎりにおいてである。つまり、データから切り離された平均処理可能な高さ以外の高さを、国家は認めない。国家はこうした不均一な高さを力づくで均そうとするだろう。近代国家は本質的に、「正義」(=公平な分配)に依拠しているからである。したがって社会主義体制だろうと資本主義を受け容れていようと、結局、近代国家というものは、事後的な平均処理によってフラット化できる自由主義以外の自由を認めることができない。こうした高さは、国家にとって、完全な異物となる。すなわち、アナーキストと呼ばれる。
とはいえ、これだけでは、たんに疎外論的な自意識が立ち上がるにすぎない。問題は、この「高さ」をどこで実現せねばならないのか、ということである。わたしの考えでは、この「高さ」を実現するのは、ほかでもない、データや情報である。フラットなデータや情報に「高さ」が加えられること、それはすなわち、データや情報が《言葉》になることを意味している。労働といってもいいとはいえ、とりわけ言葉なのだが、この言葉から取り残された主体は、かならず国家あるいはシニフィアンによって回収され「意味」化されてしまう。疎外論的に自意識を立ち上げたとしても、それを国家は、監獄によってか、病院によってか、生活保護によってか、ナショナリズムによってか、とにかくなんらかの形で主体として回収する。したがって、のたれ死にしたくなければ、もはや道はひとつしかない。言葉に主体を結びつけてしまうことである。平均化可能な高さとしての主体を消し去り、言葉のなかで、純粋な「高さ」に生成することである。こうしてできる「高さ」は意味を構成しない。《出来事》に結実する。労働/言葉に主体をまるごと結びつけることによって、さまざまな「高さ」からなる不均一な平面を作り上げなければならない。それをわたしはスタイルといい、文学と呼ぶ。
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それでもフラットに向かう力は圧倒的だろう。瓦礫さえなくなってしまうと、もはや革命に頼るほかなくなってくる。ここで革命の先頭に立つのは、高さを実現しようとする高貴なひとたち、つまりかつて「貴族」であるとか「武士」と呼ばれた人たちである。それが人類の歴史であるように思われる。彼らはふやけた正義を棚上げにする。高貴な者たちにとって正義とは、おそらく賭けの領域に属する言葉だからだ。そしておのれの言葉に存在ごと賭けてもいいと思える彼らのような人間は、当のおのれが正義であると感じていることだろう。
この観点でいうと、いくら主体から切り離された実証主義的データ(情報)を重ねても当然高さは実現されないし(高さは国家が回収している)、また情報を使用して「消尽」するといっても、その使用がさらなる平均化を促すことはあっても、なくなることはない。
また、実証主義的データを相互に交通させることも高さを実現するうえでは逆効果である。ここでの交通は、むしろ差異を消尽し、平均化を促す方向にしか働かない。むしろ孤独を強めることの方が、高さを実現するうえでははるかに役に立つ。
ありうべき誤解を恐れて付け加えると、低さを実現する、ことも当然ありうる。ニーチェの没落のように。たとえば統計的平均の増大しているあいだ、人びとに望まれるのは、そうした増大を逆の方へと導く独自の低さを実現することである(フーコーならこれを自己の「陶冶」と呼ぶだろう)。わたしが先ほどから疑問視しているのはフラットネスである。一体、なにに対して、なにを基準にフラットといっているのか? 統計的平均というほかないのだが、わたしに合わせてくれる必要はないし、わたしのほうで、あなたに合わせる気もないのだ。
ともあれ、繰り返しておけば、そうした統治構造に対するわれわれに可能な抵抗のひとつは、言葉に主体を重ねること、言葉のなかにおのれの主体を宿すことである。すなわち、言葉をリプレゼンテーションではなく、重み(軽快さ)において使用することである。