歴史を生業にする者にとり、過去は偉大である。ときに圧倒的な尊敬の対象である。だから、史料を読むとき、批判から始めることはない。歴史家の前に、過去は問答無用の確信を迫って現れる。《常識》が遠ざけたがる奇妙な記載は、本当に不思議なことだが、かえってそうであればあるほど、事実であることを強く主張する。たとえば、箸墓古墳は卑弥呼の墓であるし、秀吉の一夜城はどう考えても事実である。こうした記載を現在の歴史家が非難しているのをみると、軽い眩暈を覚える。やや強い表現を許してもらえるなら、「君は歴史家としてのセンスを欠いている」、と言いたくなる。厳密に考えれば、歴史家の仕事とは、ありそうもなかったことを証明することである。ありそうもない奇想天外なことを、暗黙のうちに現在の常識に照らして「なかった」などということは、間違っても歴史家の仕事ではない。しかし、多くの場合に当てはまることだが、学者と名の付く連中とは、まずもって疑う種族である。彼らは、若きデカルトよろしく、懐疑という、行為なき行為しか知らない。
どうしても歴史上の登場人物や事件を非難したいなら、自己批判を含む形に限定されなければならない。なぜなら、われわれは、非難すべき記載に結実した他人の事情を、本来的に知りえないからである。また、テクストから実態を引き出すことが許されるとしても、そうして構成された実態は、因果律の原則からいって、テクストに結実した事情を《やむをえないもの》としてしか提示しないからである。そして、歴史とは、その総体が《やむをえないもの》、つまり運命である。ひとはこの運命から逃れることができないし、過去の非難は無意味である。
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自己批判ならざる批判は、多くの場合、世代論に収束する。歴史の対象を非難するにせよ、あるいは先行研究を非難するにせよ、いずれもが世代論である。自己批判を含まない、歴史(学)の対象への非難は、多くの場合、子の親に対する非難(あるいは賞賛)と変わらない代物であって、いっときの慰めにはなったとしても、社会的な価値はほとんどない。世代論は、子の親に対する甘え以外のものではない。その点では、わたしはギンズブルクやカーに反対する。歴史は裁判ではない。歴史は過去を断罪できないし、対話を実現するような異議申し立てもしない。《批判》が密輸入されないかぎり、そこには弁証法の余地はない。歴史が行なうのは、事実上、賞賛と沈黙だけである(しかし、ひとはその状態に満足できないし、歴史は必ず《批判》を密輸入する……)。
批判の対象がたえず自己であるとは、どういうことか。こうだ。戦争中毒からなかなか抜け出せない人類の一員として自らを認め、そのうえで過去の戦争を非難する、ということである。これは、当然推奨される。しかし、このことから、次のことが帰結する。すなわち、その対象は、過去にではなく、現在に所属している、ということである(ここから次の命題が成立する――現在の常識に照らして容認できる記載ほど疑うべきである)。そのため、対象が現在にあるのか、過去にあるのか、という分類にたえず気を配っていなければならない。多くの場合、われわれが過去だと思っているものは、現在である。また、そこから、現在と過去の分岐がどのように行なわれるのか、という哲学的な要素にも、意を注ぐべきだ。現在はどのような時代なのか、というジャーナリスティックな問いにも敏感たらざるをえない。そうした配慮は、結局、われわれを歴史学から遠ざける。批判は、本物の歴史家(たとえばニーチェやフーコーのような)の行為リストのなかに、入っていない。
(ところで、哲学は、歴史と違ってなにを行なうのか、と問われれば、ひとつには、批判を行為に変えること――別の言い方をすると、批判を臨界に立つことにかえること、と答えよう。歴史は、本質的に実験=実践不能の概念である。自然科学と異なり、対象を実験によって証明することはできない。したがって、歴史を現実に適用するためには、どうしても歴史から離れた哲学が必要である。)
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そして、政権交代があった。この事件には、多くのひとが、《戦後》の終わりを強く感じているはずである。もはや戦争は、歴史となった。かくて、戦後の終焉とは、歴史学としては、次のことを意味する。戦争協力の名の下に、即座に対象を非難し、断罪することは、もはや許されない。そうした行為が、まがりなりにも自己批判でありえた時代は終わった。逆にいえば、戦争に協力した知識人を非難することが価値をもった時代、それが戦後であった。
たとえば丸山真男や吉本隆明、江藤淳は、そうした時代の中心に位置する人物である。このような時代において、戦争協力を行なった、という事実(その内容がいかなるものであれ)をもとに、対象を規定していく三段論法(循環論法)が容認された。すなわち、こうだ。彼は戦争に協力した。それゆえに彼の思想には戦争に協力してしまうような悪しき要素があったことが仮定できる。したがって、彼のような思想は、ひとが選択すべきではない、悪しきものと判断すべきである(ましてや、彼は高い地位にあった)。そうした思想を抱いていたからこそ、潜在的にも顕在的にも彼が戦争に協力していたことが認定できる。……
もっとひどいものでは、思想のなかから、どのような形であれ戦争協力(あるいは帝国主義やロマン主義)の痕跡を探し当てさえすれば、充分に批判として許容された。そしてあろうことか、近代の歴史は、すべてこうした戦争協力の下準備として解釈される傾向さえ、有した。いずれにしても、当の思想や行為がどれほど謎めいていたとしても、その背後に植民地であるとか戦況であるとか、ともかく実態を持ち出しさえすれば、ひとは胸をなでおろしたものである。ああ、やはり彼も戦争に協力していたのだ、これはそうした狂気に属するのだから、われわれの選ぶべき思想・行為のコーパスから取り除いておけばよい、と。戦前の思想には、異常に複雑な強度があるが、これを神秘主義の名の下に片付け、神秘主義だから狂気であり戦争協力の一端を担ったとする規定は、あまりにたやすく受け容れられた。
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今日では急速に意義を失いつつあるこうした論法は、どのような時代であろうと、本来は許されないはずである。やや物騒な言い方になるが、わかりやすくいえば、こうだ。彼はひとを殴った。つまり彼は悪人であると仮定できる。したがって彼は悪人である(ましてや、彼は高い地位にあった)……。繰り返すが、もし、こうした論法に価値を認めるとするなら、自己批判が含まれていなければならない。その点では、兵士として戦争に参加した丸山真男らは微妙な世代であるが、それよりも重大なことは、当時が、そうした世代論を容認する状況だったことである。というのも、たとえば志賀直哉が公用語をフランス語に変えようとしていたように、上の世代の多くが、新しい世代が日本を根本的に作り変えてくれることを願ったからである。公平な目で多くの事例を紐解くと、少々浅い批判だろうが、戦前の世代はそれを許したようにみえる。
京都学派や白樺派のひとびと、あるいは小林秀雄らを、戦争協力の名の下に一刀両断にした戦中派や戦後派には、今日からみると、どうしても理論的な浅さを感じざるをえない。たとえば、作家としての死を賭けて志賀直哉を批判したような、戦前デビュー組(相当に大雑把な分類だが)である織田作之助や太宰治、あるいは川端康成のような覚悟は、戦後デビュー組にはまったく感じられない。
ここには、思考の空洞というべきものが広がっている。この空洞こそ、戦後である。だが、それは、戦後がもった悲劇でもある。わたしはその意味では、彼らを批判しない。ただし、こうした古い思考が無条件に賞賛される《現在》があるとしたなら、それは強く非難されねばならない。というのも、そうした賞賛(裏返しの、安易な戦争協力批判)は、世代論に回収されるような、より遠い過去を見る際の怠慢しか生まないからである。しかし、あろうことか、今日では、こうした空洞になんらかの意味を見つけて空洞を広げ続けるような、滑稽な悲劇が瀰漫しているのを見るばかりである。
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P.S. ありうべき誤解を避けるために一言しておく。わたしはアナキストであって、左翼ではない。しかし、左翼に同情的である。だからこれを書いている。どうか、彼らが、こうした時代感覚を持たんことを……。
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