自分は歴史を現在がこうあることの説明に用いようと思ったことは一度もない。通りすがりにしたこともあるだろうが、そこは目的ではなかった。つまり歴史は現在の《手段》ないし《原因》ではない。
歴史家が、その当然の権利で、歴史のみを《目的》にするとき、往々にして歴史は歴史家のための歴史にしかならなくなり、いかにリアリティに肉薄しても、現代におけるアクチュアリティを失ってしまう。しかし、多くの歴史家はそれを望んで遂行する。歴史が現在に影響される可能性を排除して、リアリティに肉薄するのを優先するからである。
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自分はその気持ちを理解するが、その程度の姿勢で現在からの影響を排除するのは容易ではない。これまで、多くの歴史家が語ってきた歴史の肝心な部分のほとんどは、歴史家と同時代の意見の反映に堕落している。つまり時代が変われば、結局はアクチュアリティのみならずリアリティも失うのである。
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それなら、というわけで、現在がこうあることの説明の手段として歴史を用いたくなる。過去から現在への因果が成立することを前提に、リアリティにある程度目を瞑っても、アクチュアリティを確保しようというわけである。
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しかし、自分はそれにも反対する。それは、現代の歴史家が期待する幾許かの予定調和のために使用されることであり、そうして説明のために消費された歴史は現在で「終わり」を迎えて、それ以上前に進む余力を失ってしまうからである。
つまりそうした歴史にも、けっきょくアクチュアリティはないのである。現代社会は、歴史が前に進まなくなった社会である。歴史に真にアクチュアリティを求めるなら、その本性にしたがって、社会を前進させる歴史でなければならない。
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それで自分は歴史に夢をみる。もっと正確にいえば、未来に夢をみているような歴史を探す。すなわち、現在を乗り越えて、未来にまで伸びていきそうな芽を探す。その芽は、現在を素通りしていく。だから現在からは無価値なものと放置されている、孤独な歴史である。だが、それでいい。現在にとって絶対的な他者である過去から、しかし自己の可能性を学ぶことに、歴史を用いる。ひとが未来を臨んで前方を見ているときに、かえって後ろにある過去を向いて未来を探す奇人、それが歴史家なのである。自分は歴史を目的として扱う。ただし、われわれはいつのまにか、目的のある場所と考えられていた過去と反対の、未来にいるのである。
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