歴史の罠と差異化

philosophy
2005.11.01

歴史とは、何か。つきつめていえば、それは、過去を現在に回収する装置である。もっと端的にいえば、過去を現在に変える装置である。歴史の装置は、だから、過去ではなく、《現在》に置かれている。純粋に過去そのものであるような歴史は、存在できない。“過去そのものであるような歴史”とは、錯乱せる人間の理性が生み出した、端的な誤謬である。したがって、むしろ、誤解を恐れずにいえば、歴史の探求とは《現在》の探求であり、一般化を犠牲にしてより正確を期せば、過去についての《現在》と現在についての《現在》の差異を明るみにすることである。つまり、歴史は《過去》を扱うのではない。

資本主義とは、何か。つきつめていえば、それは、過去の生産形態と現在の生産形態の差異を通約可能にする装置であり、もっと端的にいえば、過去を現在にもってくることで、価値を生産する装置である。商人資本は空間的差異から価値を生み出したが、資本主義は、その場にいながらにして、差異を生み出すことに成功したのである。

このように、これら二つの装置は、過去と現在を通約(=通訳)するという点で、奇妙に重なり合っている。資本主義は、ある意味で、歴史的時間にまつわる上記の人間的誤謬を利用することで、「剰余価値」(マルクス)を生み出していると考えて差し支えない。

欠損を含む過去世界からの手紙(=「痕跡」(デリダ))を読む古文書学者は、いわば、近代資本家の集約された姿である。手紙の欠損、それは、他者ではない。欠損を含む手紙全体の記述=痕跡もまた、他者ではない。むしろ、《現在》である。にもかかわらず、この欠損が、“古さ”に見え、しかも、書き手の時間上の立ち位置(過去)がもたらしたものに見えるということが、歴史という装置のもっているひとつの罠である。“古さ”とは、《現在》である。過去ではない。このように、歴史は、徹頭徹尾、《現在》であるにもかかわらず、それが《過去》に見えるという、きわめて重大な欠陥を持っている。この欠陥は、文字から、「亡霊」(デリダ)を浮かび上がらせる。「亡霊」、それは無数の読者の影である。手紙が書かれて以来、さまざまな読者がいた。もちろん、読者には、あなたが含まれている。問題は、けっして書き手の「亡霊」ではないということである。

じつのところ、《現在》を扱う歴史においては、真の《過去》は置き去りにされている。また、同じことだが、歴史は《ここ》だけを扱っているのであり、したがって、《よそ》は置き去りにされている。文字は古い。だが、過ぎ去る現在――つまり過去――にある声と違って、文字は、つねに《今ここ》に定着している。つまり、文字は、《現在》にある。だから、本当に《過去》や《よそ》を扱おうと思うなら、歴史は、《今ここ》もろとも消滅しなければならない。

“ここ”と“よそ”。あるいは、“今”と“過去”。それらが通約可能な差異であるうちは、コミュニケーションは、この差異を同一化するプロセスとして捉えられ、また、そのことの不可能性が、同時にコミュニケーションの不可能性として把捉される。基本的に、デリディアンの議論は、この同一化のプロセスを、同一化不能のプロセスに重ね合わせることである。すなわち、同一化を志す思考が同一化不能の地平に到達することで、差異の通約可能性を疑い、さらには、通約不能の差異を見出すこと、これを脱構築と考える。したがって、同一化と同一不能性とのあいだの“揺らぎ”や、あるいは“ためらい”に可能性を見出すというパターンを取りがちである。この“揺らぎ”や“ためらい”が、デリダの用語で「差延」と呼ばれることになる。

だが、“ここ”と“よそ”、あるいは“今”と“過去”とが、通約可能な差異ではなく、絶対的な差異をもっているのだとしたらどうだろうか。その場合、こうしたプロセスそのものが不可能になるはずである。つまり、通約可能な差異という発想を疑うための通約可能性を想定することができず、結果として、脱構築の手続きを踏むことができないことになる。したがって、デリディアンの議論は、じつは、袋小路だとわかっている道を選ぶようなものである。というか、最初からいきなり壁にぶつかるのである。強力なブラックホールであるヘーゲルを内側から破壊することはできない。内側に入った時点で一巻の終わりである。

考え方を変えよう。“ここ”と“よそ”、あるいは“今”と“過去”とは、絶対的な差異をもっている。にもかかわらず、わたしたちは、コミュニケーションしている。だとすると、問題は、時空間の差異とは別のところにある。すなわち、コミュニケーションが、差異を同一化していくプロセス(脱構築の場合は、その逆)として捉えられているという、この部分に誤りがある。同一化が不可能であるとわかっていながら同一化を欲望することができるのはデリディアンだけであり、要するに間違っている。むしろ、コミュニケーションが、差異Aから差異Bへの《差異化》のプロセスであるとすればどうか。だとすれば、絶対的な差異は、むしろコミュニケーションの可能性である。“ここ”と“よそ”、あるいは“今”と“過去”との差異が、別種の差異にもち来たされることが、コミュニケーションである。したがって、真に問題なのは、“ここ”“よそ”、“今”“過去”を繋いでいる「と」である。この新しい「と」は、古い「と」のように両者を対立させつつ、通約可能なものとして、繋げているのではない。むしろ、両者を引き離しつつ、併置している。両者の、通約不能の絶対的距離が、同時に併置を可能にしている。「と」は、その表現である(1)

ところで、《差異化》は、ジル・ドゥルーズの概念differentiationである(2)。この概念の、もっとも優れた例のひとつが、柄谷行人の言う、「教える」立場「学ぶ」立場である。この場合、重要なのは、二つの立場の差異は、“今”と“過去”という絶対的な差異を内包しているという点で特徴づけられるということであり、にもかかわらず、この絶対的な差異なしには両者の関係が形成されないという、(同一化を志向する古いコミュニケーション論からすると)一種の逆説が成立していることである。したがって、ここで柄谷は、コミュニケーションの概念そのものの変更を迫っていることになる。つまり、コミュニケーションとは、差異を同一化することでも、同じものを差異化することでもない。差異から差異への《差異化》なのである。

【註】

  • (1) この議論は、ご承知のとおり、ジャン=リュック・ゴダールの『ヒア&ゼア こことよそ』(1974年)およびジル・ドゥルーズの『シネマ』(1983-5年)のゴダール論を念頭に置いている。
  • (2) ドゥルーズの「差異化」と、デリダの「差延」はまったく意味が違うという事実を確認しておきたい。

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