「歴史とは解釈である」。よく聞かれる言葉である。もちろん歴史は(史料の)解釈である。自明ながら、理系文型を問わず、あらゆる学問は、ある事象の解釈でしかない。この意味においては、大きな「解釈」という概念のその一部(解釈(学問)>歴史)として歴史が存在しているように見えるが、実際には、歴史イコール解釈イコール学問であり、等記号で結ばれる両者は、もちろんその位置を入れ替えても、依然、「学問イコール歴史」として等記号で結ばれることになる。ひとは、歴史的にしか物事を解釈できないし、物事を解釈するということ自体が歴史学の実践に他ならない。なぜなら、学問とは反省的にものを見るということであるから。反省的に過去を見つめ、未来にそれを援用する準備をすることこそが学問的探求というものである。つまり、学問の実践は、その反省において過去を、すなわち歴史を振り返らせるようにしかできていない。歴史とは、解釈である。解釈とは学問である。学問とは、反省である。反省とは歴史である。……
純粋な学問において、その対象が想起させる(すなわち反省させる)スペクタクルは見せかけでしかなく、前節で述べたように、その対象が語る以上のものも以下のものも存在していない。しかし、精神のロマン主義的側面において、プラトニックな側面において、まちがいなくスペクタルは存在し、精神に蓄積されている。時間がわれわれの記憶として蓄積されているのとまったく同じように。その意味では、ヘーゲルの歴史観は容易には捨てきれないし、ドゥルーズの歴史観もあるいは一面的であるかのように見える。われわれは、歴史において、蓄積的な諸概念を援用しながら、分裂症的に歴史を解釈しなければならないのか。……ちなみに数学や物理学の理論は一個の芸術作品だと思っている。