自分は歴史学に過剰な期待を抱いているのかもしれない。なにより、歴史学者の謙虚さが歴史にまで及ぶのは避けるべきと考えるひとりである。実際、歴史学者は謙虚だ。しかし、その謙虚が歴史そのものの卑下になっては元も子もない。歴史と歴史学は違う、というのは簡単だし、歴史と歴史学者も違う、というのも簡単だ——言うだけなら。だが、歴史は、歴史学者の想像力に依存したものであり、じつはその区別は実際には簡単ではない。歴史学者が謙虚になればなるほど、歴史のほうも卑屈になってしまう。社会に対する謙虚はなんら必要がない、と言ってさえいい。必要なのは、歴史に対する謙虚であり、歴史の偉大を語る勇気である。人間の歴史の美しさに、自分の筆が及ばない。もっと力が欲しい。
近年の日本の若手知識人に欠けているのは天皇論だが、それよりなにより、歴史についての独自の考察が欠けている。哲学を足場に、文学には目が向く。だが歴史については、通り一遍の左翼的知見で十分であると考えられているのか、現代右翼との抗争上必要とされるかぎりでしか参照されることがない。
歴史に目を向けずに未来ばかり思い描くから、その未来が現実的な可能性をもたない、道徳の授業のようなものにしかならない。過去を見たがらない、という意味では、右翼の浅薄な歴史理解と、じつはそう変わらない。フーコーやドゥルーズがあれほど歴史に目を向けていたのに、研究者はそこから学ばない。
哲学的文献学者の問題は、語ったことから学んでも、その眼差しから学ばないことだ。眼差しに学ばないから、現代の流転に立ち止まっていることができない。いくら未来を描いても、現代にお付き合いして流されてしまう、ようにみえる。流されていていい、ということなのかもしれない。
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地の底で仕事をする炭鉱労働者が自分の仕事を卑下しても仕方がないように、彼らと同じく精神の最底辺の大地で仕事をする歴史学者もまた、自分の仕事を卑下しても仕方がない。社会に対する謙虚も必要ない。そんな世間道徳はどうでもいいから、一度くらい鉱脈を掘り当ててこい、という親方の声が聞こえないか。
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とにかく、歴史の偉大さに対して、自分の力が足りない。もっと力が欲しい。というわけで、勉強だ。文学、哲学、芸術、ときには科学やテクノロジーからも学ぶ。自分の人生のすべてが、歴史の原稿を書く、その瞬間のために費やされなければならない。
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