歴史的護憲、歴史的改憲

criticism
2013.05.03

わたしは歴史学者だから、憲法についても、法学的に読むことはしない。むしろこれらの条文を、言葉として、そしてその言葉が徴づけている出来事を読みこもうとする。そして、まだ息をしているこの言葉が早急に葬り去られようとしているのなら、そのことを悲しいと思う。

もしかすると、憲法が一字も違えずに《保存》されればいいと思っているひとも多いのかもしれないが、自分の考えはちがう。歴史家にとって大切なことは、法文がもっている精神を後世に伝えることである。この精神に即して、かえって変えるべきケースが発生するということは、ありうることだと思う。

この憲法、この言葉が世界にはじめて生じたとき、その周りで恐るべき出来事が起こっていたことを、わたしたちは知っている。すなわち世界戦争と、夥しい死である。憲法にもまた、ただの法文ではない、歴史が込められている。つまりこの言葉は、たんなる現実の比喩ではなく、出来事そのものなのである。

だが、この憲法を簡単に変えられるようにして、前文や条文のそこかしこに現れている精神=出来事を消し去るほどに、ほとんど改めてしまおうというのなら、そのときこそ、歴史は失われるのである。歴史家は、この出来事が失われてしまうことを、悲しむのである。

だからもし、戦争と夥しい死、ひとりひとりの命の重さが最も軽かった時代に出来上がったこの憲法の精神が失われるほどの改憲があるなら、それ自体もまたひとつの出来事であるだろう。さてどのような出来事か? それはおそらく、ひとりひとりの人間の命の重さに耐えきれなくなった人間の衰弱である。

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