殺された俳優について

criticism
2007.11.10

射殺された俳優、そして俳優を射殺してしまった観客について考えてみよう。射殺された俳優は、いわゆる悪役であり、主人公を騙してその妻を殺害させ、殺害した本人をも自殺に追い込んだ非道い人物だ。“イメージ”という名の役を演じた彼は、あまりにも見事にその役を演じた。そのために、あろうことか、観客に憎まれ、本当に殺される羽目になってしまった。観客は、このとき、越えてはならない境界線を、踏み越えてしまったようである。すなわち、舞台と観客席、同じことだが虚構と現実とのあいだに引かれた境界線を、踏み越えてしまったのである。

だが、それは、観客だけの侵犯ではなかったのかもしれない。その俳優の見事な演技そのものが、もしかしたら、舞台と観客席の境界線を越えてしまったのかもしれない。むろん、それを証明する手立ては、今となってはないが、だとするならば、先に、この境界線を踏み越えたのは、俳優のほうなのだ。

いったい、この場合、どちらに罪があるのだろうか。人を殺害した、という点で、観客に罪があるのは明らかだし、その点は論じるまでもないことだ。俳優は、たしかに、肉体的な死を与えられたのだ。だが、わたしが論じたいのはそのことではない。

この観客の罪は、どこにあるか。それは、たんに人を殺害したことにあるのではない。もちろん、殺害は罪だし、裁かれねばならないが、酌量の余地はつねにあって、たとえば親の仇討ちであったり、あるいは正当防衛であったり、時代や社会によって、罰を猶予される殺しがある。つまり、法は、たんに肉体的な殺しだけを、裁くのではない。むしろ、法は、法そのものの侵犯を裁くのである。法は、トートロジックに機能するのだ。その意味で、観客が犯した罪は、虚構と現実とのあいだに引かれた境界線という法を、まさに侵犯した点にある。だから、彼の罪は、典型的な罪だということができる。しかし、問題は、先にこの境界線を侵犯したのは誰か、ということである。つまり、俳優のほうが先にこの境界線を踏み越えていた可能性があるとすれば、むしろ罪は、この俳優にあるはずだからだ。

裁判官は、この観客に、本人の罪を、どのように説明するだろうか。というのも、この観客は、現実と虚構の区別をうまくつけられていないのであり、その説明は、そう簡単ではないのだ。もし、殺害の動機を聞けば、彼は次のようにいうだろう。

「俺はたしかに、彼を殺害した。それは悪いことだったかもしれない。だが、彼は、殺すに値する非道をやってのけたのだ。だから動機はといえば、彼がひどい男だったということに尽きる。」

もちろん、裁判官はかぶりを振って、こう説明するだろう。

「彼が俳優だということは知っていたでしょう。つまり、あれは演技であって、現実にやったことではありません。ひどい男だというのも、演技なのです。そうではありませんか。」

観客は、なんと答えるだろうか。読者はにわかには信じ難いかもしれないが、わたしには、こう答えるように思われる。

「そんなことは知っている。あれは、劇場で起こったことなのだからな。そんなことは充分に承知しているさ。しかし、俺がやつを殺したのも、もちろん演技なのさ。だってそうだろう、あんなことが、現実に起こるわけないじゃないか。もしかして、裁判官さんは、現実と虚構の区別が付いていないんじゃないか?」

現実と虚構の区別は、簡単ではない。この裁判官は、しかし、いらいらしながら、こう繰り返すほかない。

「常識に、良識に、そして共通感官に照らしてみて、役者の行為はあきらかに演技なのだから、あなたの現実的な行為とは、区別すべきであった。つまり、あなたは、役者の行為はあくまで非現実的な虚構だと捉え、《括弧に入れる》べきだったのだ。」

この《括弧入れ》は、一見説得的にみえて、じつはまったく説得的ではない。そもそも《括弧入れ》のできない人間に《括弧入れ》をしろ、と説くのは、泳げない人間に泳げというくらい無意味なことである。どのような点で、虚構と現実とが区別できるのかを、泳ぎかたを教えるように、説かねばならない。むしろ、この観客はこういうだろう。

「《括弧入れ》ができていないのは、裁判官、あなたじゃないか。俺がそんな非現実的なことを本当に犯すはずがないだろう。あくまで、あれは演技の上でのことだ。」

そもそも、わたしたちは、現実と虚構の区別などしているだろうか。この観客を哂うことが出来るほどに、そうたやすく現実と虚構を区別できるのだろうか。わたしの考えでは、むしろ《括弧入れ》をしているのは、この観客のほうである。おそらく、わたしたちは、そもそも現実と虚構を区別してなどいない。わたしたちは、現実と虚構を区別しないからこそ、人を殺さないのである。だが、現実と虚構を区別せよ、としかいえないこの哀れな裁判官は、きっと、いまや俳優と観客の区別ができなくなっているはずである。

この事態は、典型的な「うそつきのパラドックス」(《わたしは嘘をついている》)である。彼は、このとき、本当のことをいっているのだろうか、それとも嘘をいっているのだろうか。この場合、論理学的に、つまり内在的に現実と虚構を区別するのは不可能である。だからこそ、裁判官は、外在的な良識や常識、カントのいう「共通感官」に頼らねばならなかったわけだ。

小説は虚構である、というパラダイムがある。もちろん、そのとおりといってもよいのだが、逆にいえば、虚構でない言語態があるのか、ということが、問題になる。つまり、小説が虚構だとして、歴史の言語は現実的なのだろうか。

もちろん、そうではない、というだろう。歴史の言語もまた、虚構である。現実と虚構を分割する根拠は、言語的現実と非言語的現実の区別以外にはないからである。言語的現実は、原則的に、すべて虚構に属する。統語論上、言語を、現実と虚構とに区別できるのであれば、「うそつきのパラドックス」はそもそも発生しないからである。《わたしは嘘をついている》のうちで、「嘘」を小説的虚構に、「わたしは…をついている」を歴史的現実に分割すれば、たんに彼は嘘をついたという現実だけが残る。パラドックスは発生しないのだ。「嘘」をかぎ括弧に入れれば、このパラドックスは、たしかに回避できる。

要するに、これが《括弧いれ》というものだが、結局のところ、現実と虚構がどのようにちがうのかを説明しないのであれば、たんなる意味や名義の問題にすぎない。小説と書いてあれば虚構であり、歴史と書いてあれば現実であり、演技と書いてあれば虚構であり、現実と書いてあれば現実であり……。

しかし、そうした名義がないのであれば、《括弧いれ》は、不可能である。すくなくとも、「嘘」と「わたしは…をついている」を分割できる根拠がない。《わたしは嘘をついている》という言葉はすべてたんに言葉だからである。したがって、じつは、このパラドックスは、言語がすべて現実ではなく虚構である、という前提があって、はじめて可能となるパラドックスであることがわかる。つまり、歴史の言語もまた、虚構なのである。いわゆる歴史=物語というものである。

つまり、正確を期していえば、言語がすべて虚構であるという前提を受け容れるかぎりで、このパラドックスが発生するのであり、また、このパラドックスを重大なものと受け容れるかぎり、《括弧いれ》がどうしても必要になってしまう、ということである。

この手の議論を弄するかぎり、言語は本質的には、すべて認識の内部に納まってしまうことになる。明確な基準は不明だが、とにかく世界を現実と虚構とに分割するかぎり、かならず言語は虚構の側を占めるし、また、言語外の現実は《物自体》として認識の外に置かれてしまう。これをやってしまうと、かならずある問題が発生する。小説=虚構だという議論はなんとか受け容れられるとして、ならば歴史=虚構ということは成立するのか、という問題である。

言語的歴史と、言語外の現実的歴史があるとして、当然ながら、わたしたちが手にすることができるのは、前者だけである。言語外の現実的歴史は、《物自体》であり、認識の外にあるからである。つまり、言語的歴史は、当然、認識論的な産物であり、それ以外にわたしたちは触れようがないのだから、結局、歴史は全体として虚構ということになってしまう。想像力を働かせる以外に、現実的歴史には触れようがないが、それが想像力である以上、結果的にやっていることは虚構としのて小説と変わらない、ということになる。言語は、本質的に、比喩なのだ。

必然的に、言語=虚構を受け容れるかぎり、《非現実的》ということと、《非現実》には、言語上、究極的な区別がないことになる。したがって、想像もできないような出来事が実際に起こったとして、それをわたしたちは《非現実的》だというのだが、しかし、それは、《現実ではない、つまり非現実》だ、ということと、区別できない、ということになる。

たとえば、人間魚雷や特攻隊について考えてみよう。こんな無茶は、非現実的な行為だが、だからといって、なかったことにはできないはずである。しかし、上記のパラドックスを受け容れるかぎり、証明は不能である。非現実的=非現実なのである。だからこそ、《括弧いれ》が必要だ、という議論がなされるのだが、原則的に、この《括弧いれ》は、暗黙のうちにこのパラドックスを受け容れているからこそ必要になっていることを忘れてはならない。したがって、やはり廻り廻って言語はすべて虚構である、という認識論的な議論をかならず誘引するのである。言語(史料)と、その外にある「実態」を区別し、後者を重視する実証主義は、それゆえ、かならず、構成主義的な、認識論的な歴史をみずから招く結果に陥る、ということである。おそらく、この構図は今後も変わらないだろう。

言語は、認識の産物であり、比喩であり、精神のうちにとどまる。こうしたコミュニケーション不全な議論を、わたしたちはしばしば《絶望》といったりするのだが、とにかく、言葉を括弧に入れて使用するこうした行為は、言語を腐敗させる。所詮言葉だから、現実とは違う、というわけだ。今日、あふれているのは、そうした批評的言語論である。先の観客は、無意識のうちに、この言語=虚構というパラダイムのなかで、巧みに《括弧いれ》を駆使しているのである。

しかし、なぜ、政治家は失言によって辞めねばならないのか。それが比喩だとするなら、たいして問題ではないはずである。またなぜ、掲示板に書いた「死にたい」という言葉が、現実にひとを自殺に追い込んでしまうのか。なぜ、たかだかゲームや映画や小説にすぎない惨殺シーンをみた子供が、現実にそうした行動に駆り立てられてしまうことがあるのか。

答えは簡単である。言葉は、けっして認識の内部にとどまったりしないからである。言葉は、それ自体が、出来事だからである。言葉は、《もの》と同じやりかたで、現実に作動するのである。ひとが《もの》を投げた時、壁に当たって跳ね返るように、あるいは《もの》が風に押されて動くように、言葉もまた、壁に当たり、あるいは風のように《もの》を動かす。

ヒトラーの「最終解決」という言葉は、比喩ではなく、現実にユダヤ人毒殺を招く。「生きて虜囚の辱めを受けず…」という島崎藤村の言葉は、現実に作動し、ひとを集団自決に追い込む(もちろん、東条英機の委嘱があったことを忘れるべきではないが、しかし、この優れた文学者は、それ自体が戦争機械と化しているような、自身が磨き上げてきた最高度に強力な言葉を、その他多くの文学者同様、国家のために用いてしまったのである――しかし、それでもわたしは藤村を愛しているが)。

言葉は、虚構ではない。虚構の言葉すら、現実なのである。結局のところ、虚構と現実の区別は、一見大人びて見えはしても、虚構というレヴェルの低い現実を結局は保存し、糊塗するための方便にすぎない。現実か、虚構か、などというレヴェルの低い話は、本当の大人の世界では通用しない。すべてが、現実なのである。小説や、マンガといっても、それもまた、もうひとつの現実の世界なのだ。だが、空間を、器用に現実と非現実とに分割し、特定の場所ではアニメのキャラクターに扮し、それ以外の場所では、労働し、食事し、そして排便する、そんなひとたちがいる。もちろん、それらは、本当はすべて現実である。彼らは巧みに括弧を使用して、現実という現実と、虚構という現実、という境界をたえず作り出しているだけである。《括弧いれ》を声だかに語るひとは、もちろん、そうしたひとたちを、現実と虚構とを区別できないといって謗るのだろうが、彼らほど、現実を括弧に入れるのが巧みなひとたちもいない。というか、いまや、日本そのものが、巨大な括弧のなかにあるようにみえる。

そこまで考えれば、さきのパラドックスなど、ほとんどどうだっていいことがわかる。そんなことを考えている暇があったら、「わたしは嘘をついている」などという暇があったら、美しい言葉、説得的な言葉をいかに適切に――つまり反認識論的に、反国家的にあつかうかを考え、自分の言葉を磨くべきなのだ。嘘か本当か、など、重要ではない。嘘という本当があり、本当という本当がある。やるべきことは、本当の本当を目ざすことだけだ。そして、本当にやるべきことは、そんなつけたりはずしたりできるような、小ざかしい括弧など、かなぐり捨ててしまうことだ。

言葉こそ、出来事だと言い切ってしまうこと、出来事であるような言葉を探求すること、そうしなければ、いつまでたっても腐敗した言語が、虚構性のうちにすべてを語る小説やマンガが生まれるばかりである(たとえマンガであろうと、もっと真実性を有しているようなそれはあるはずだ)。批評家は、自分が何を行なってきたのか、もう一度足元を見つめ直すべきだ。

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