神や王、将軍にかえて、ひとが《法》を玉座に据えたときに、近代がはじまった。たとえ王であろうと、またその源泉が古来の王統にあるのか、それとも人間本性にあるのかは別としても、とにかく《法》にしたがう。それが近代のひとつの意味だった。法が、すべてのひとを自由にしたのだった。
しかし、《法》の横暴がいたるところにみられる。といっても、法は意志をもたない。なのにどうやって暴力をふるうのだろうか。法は、その運用にどうしても解釈が必要になる。解釈なき適用はありえない。しかし解釈可能性が奪われるとき、ひとは、法の横暴や暴走を感じる。
かつての《法》は、王の《寛容》とセットだった。だが、この寛容の機会を、ひとはますます失っている。法の厳密な解釈が求められ、次第にひとは息をする場所を失っている。
いまやすべての法は、解釈によって実現する。したがって、法の暴走といっても、結局は、法を運用する人間のひとつの解釈にすぎない。だから、この暴走は人間の暴走なのだ。それに対して、ひとは寛容を取り戻そうとはしない。近代的人間は、むしろますます厳密な法の執行を期待する。かくして、次のことを夢想しはじめる。解釈者=人間なき法の運用、すなわち機械による審判。デウス・エクス・マーキナー。
あらゆる決断を神や王に委ねてきた人間が、それにかえて《法》をこしらえたとき、その背後にちらついている高貴にして傲岸な人間が卑しくみえる。運動競技で右往左往する黒尽くめの憎たらしい審判を、機械仕掛けのそれに変える、などということは、今日いたるところでみられるものだ。
審判などという仰々しい名前を冠する人間は、すべて機械に変えてしまえばいい。そんな構想が、いたるところにあふれている。解釈改憲という奇妙奇天烈な言い方が横行しているが、そんなものは、あの愚かなイラク戦争よりもずっと以前からそうだったのであり、そうした常識を追認しているにすぎない。
結局、今日、法ではなく、人間存在自身が問われているのだ、という認識なしに、法の問題が真の理解にいたることはないだろう。すべての決断を天から降りてくる機械に委ねる傾向が強まるだけであり、したがってその顔が現総理の顔なのか、ロボットなのかは、この際民衆にはどちらでもよいのである。
いかに法に美文が連ねられていようと、人間が衰弱していくなら、自覚のあるなしにかかわらず、もとの文章とは似ても似つかぬ解釈がおこなわれ、それにみあった現実がもたらされる。法を守れと言うだけで、法を生み出した戦前の精神を反復することがないならば、法を真に守る人間が生まれるはずはない。