法の世界について、自分はとかく縁遠いが、《法外》の世界を「無法者」の世界や、暴力的権力の蠢く世界としてしか想像できなくなっていく近代の危険性ということを、自分は強く感じている。「言論の自由」にとって、秘密保護法案より恐ろしいものは、法とは無関係になされる自己検閲である。
法外な世界とは、この世界のことだと、自分は思う。すべてが法律の世界に収まってしまうことなどありえないし、またその外側は地獄のように権力者や悪人の欲望や暴力が渦巻いているばかりでもない。
言外に言ったので伝わる向きは限られていたろうが、法律の世界に対して文学の世界(ここは真に法外な世界)があることの意味を、もう少し感じられるようにならないといけない。そうでなければ、法というものをほんとうに考えることはできないだろう。
大日本帝国憲法ができた1889年という同じ年に、最初の近代文学といわれる二葉亭四迷の「浮雲」が完結している。法と文学という、両極端な言語活動はおなじ起点をもっている。このことが、近代という時代のほんとうの意味だ。
秘密保護法案と言論の自由をめぐる議論にも危うさを感じている。秘密保護法案ごときで、本来の言論の自由はなにひとつ揺らぐことはない。むしろこの法案がもたらす必然的な誤解によるひとびとの心理状態の方が、言論をもっと危険にさらす。
言論の自由は、法律によって守られているのではない。言論の自由の方が、逆に、法律(憲法でさえも)を可能にしているのである。その当たり前のことが逆転しているのが現代であって、なぜ、ひとつの言論にすぎない憲法に言論の自由の保障が可能だなどと考えてしまうのか。
「憲法制定権力」(樋口陽一)だけが法外なものではない。言論の自由もまた法外なものである。言論の自由こそが人間を可能にすると考えるなら、人間もまた法外なものである。その地点から、憲法の方を振り返ってみよう。それが正しいのなら、憲法は人間の姿をしているはずだ。人間を写す鏡……。
憲法は、その本質からいって、かならずそれを奉じる人間自身をそこに書き込んでいる。われわれが思い描く《人間像の表現》が、憲法の本質なのである。言論の自由は憲法によって保障されているのではなく、人間が言論の自由をもつという本質が、そこに書き込まれている、という風に考えなければならない。
人間を問うことをやめてしまえば、人間はたちどころに堕落する。それもまた人間であり、憲法を書き換えるということは、すなわち、今日の堕落した人間を書き写すということにほかならない。改憲の議論は、19世紀や、20世紀半ばの人間よりも、われわれは優れているだろうか、という問いなのである。
法を内側から守るのか壊すのか、ではなく、法の善し悪しを吟味する大人を作ることを、教師が目指すのであれば、一度は、法の外側=彼岸に若者を立たせねばならず、だから、法の外側には、無法者や権力者だけではなく、自由な人間もまたそこにいると教えねばならず、ついにこの世界は、どこまでも法外な世界なのである。
19世紀のドストエフスキーやユゴーたち、20世紀の志賀直哉やカフカ、カミュたちの文学は、いつも法の外側の世界を描いていた。そこに真の実存があることを、彼らはずっと感じていた。こうした法外な世界を描く想像力なしに、よりよい法が可能になるとはとうてい思えない。