夏が終わりを迎えるころ、わたしはある男に出会った。男は、「ずっとぼくを悩ませてきた問題がある」と言った。「自分の主張が反社会的とみなされ、死を宣告されるようなことがあったとする。ぼくはそのとき、どのように振舞うべきなのか?」 わたしはそんな問いを問うことが自意識過剰だと思った。だが、この不器用な男はわたしの回答など求めてはおらず、夢みるように、恍惚として語り始めた。
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自説を撤回して生を選ぶのが正しいのか。それとも死を甘受するのが正しいのか。どちらにしても、勇気がいる……。古来、いろんな人物がそうした判断を強いられてきた。自説を枉げず火炙りとなったジョルダノ・ブルーノ。あるいは自説を枉げて処刑を免れたガリレオ・ガリレイ。獄で毒を呷って死んだソクラテスもそうだ。近いところでは虐殺されたあの小林多喜二もそうだ。彼らは、自身の哲学や文学のためにときの政府によって捕えられ、獄死させられたひとたちである。
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言論の自由主義時代に、こうした死に反論することは簡単であるらしい。たとえば、アルベール・カミュは次のようにいう。
ガリレオは重要な科学的真理を強く主張していたが、その真理ゆえに自分の生命が危険に瀕するや、いともやすやすとそれを捨ててしまった。ある意味でこれは当を得た振舞いだった。その真理は、真理だからといってそのために火焙りの刑に処せられるだけの値打ちはなかったのだ。地球と太陽と、どちらがどちらのまわりをまわるのか、これは本質的にはどっちでもいいことである。ひとことで言えばこれは取るにたらぬ疑問だ。これに反して、多くの人びとが人生は生きるに値しないと考えて死んでゆくのを、ぼくは知っている。
アルベール・カミュ「不条理な論証」(清水徹訳、新潮社)。
こうした意見はもっともらしい。地球と太陽のどちらが中心か、などということは、「人生」のまえでは取るにたらぬことだ。科学者であるよりも前に人間であるガリレオは、だから、たかだか言葉のために死ぬくらいなら、生きることを選んで当然なのだ……。
だが、本当にそうだろうか。ならば知のために生命を犠牲にしたひとたちは、この当然の価値を見誤ったのだろうか。黄金をくず鉄と交換してしまったのだろうか。――ぼくは、カミュがこんなことを本当に言ったのかと、わが耳を疑う。おそらく、このころのカミュは、文学に悲観的だったのだろう、そして人生にも悲観的だったのだろう。彼自身が、いまにも、《人生は生きるに値しない》と考えそうになっている、そんな風にぼくにはみえる。……
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自由主義時代のひとびとは、値踏みする。そしてどういうわけか、生命こそ、なにものにも変え難い価値を持っていて、その他のもの、たとえば知や美や善は、生命の至高の価値のまえでは取るにたらぬものだ、と考える。自由主義時代のひとびとは、あらゆる仕事が、生きるという最後で最高の価値からみれば、あまりにもちっぽけなものだという思考に、たやすく陥ちてしまう。死ぬくらいなら、自分の思想信条を枉げることなど、たやすいことなのか。自分の仕事は、所詮はそれしきのものでしかないのか。たかが科学、たかが政治、たかが芸術、たかがスポーツ、たかが哲学、たかが文学。人生にはもっと大切なものがある――たとえば生命? 余生?
だが、意外なことだ。自由のない時代にこそ、ひとは、信念を枉げることを拒むものらしい。自身の自由を貫き、そして権力に屈することを拒むのだ――そう、逆に言えば、自由な時代にこそ、ひとはかえって、生命の安全のために、たやすく自由を明け渡す。だが、それは、言葉を失ったとしても、死ななければそれでいい、という思考と、どうちがうのだろうか? そして突き詰めていけば、――《死なないのであれば、生きていなくてもいい》、そうなってしまうような気がしてならないのだ。
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本当の一流は、自身の仕事が、世界や人類のための仕事でなければならないということを、心のどこかで知っているものだ。そして少なくとも、自分の仕事が、すこしでも他人の幸福につながればと、願っているはずだ。ガリレオが大地のほうが動くと考えたのは、そのことで、世界をよりよく変えられると信じたからだ。敬虔なカトリック教徒であった彼は、それだからこそ、神のもとに虚偽があってはならないと、余計に考えたにちがいない。そのことが、彼の人生にとって、彼らの時代にとって、取るにたらぬことであったはずはない。彼が自身の意見を枉げたとき、“科学者としての自分は死んだ”、と言ったとも伝えられる。その一方で、彼は両目を失明しながら、のうのうと地動説を信じ、科学者であろうとしたとも伝えられる。ぼくは両方とも真だと考える。言葉を死に明け渡して、肉体的にだけ生きたガリレオ。のうのうと生きて科学しつづけたガリレオ。二人の《ガリレオ》が、あのとき、同時に存在していただろう。つまり、ガリレオは、分裂したわずかな余生を送ったはずなのだ。
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なによりも生きることが、もっと正確に言えば、死なないことが優先される。そのためなら、自分の仕事が否定されてもかまわない。こうした自由主義的な思考は、ひとを生きさせ、そして精気を失わせる。肉体的に死ぬくらいなら、精神的に死ぬほうを選べ、という思考にひとを追いやっていく。言葉を死や歴史に明け渡し、そして当然の精神的な死の報いを、生と謳歌する。
だが、それはおかしい。そうした思考こそ、ひとをして《人生は生きるに値しない》という思考に追い込むのではないのか。生の前ではすべて無価値だという思考ほど、人を陰気にさせるものはない。そして誰もが生活のために罪を犯す。ひとが罪を犯すのは、たいていは生活のためだ。生活という最高の価値のために、――結局は、めぐりめぐって人生を犠牲にすることを選ぶのだ。だが、なにものかを犠牲にしなければ成立しない生活に、本当に価値などあるのだろうか。
ぼくが《文学》を選んだのは、そういう思考に反対するためだ。それが、人類のためになると信じ、それが、自分の人生を賭けるに値するものだと信じたからだ。もっとも取るに足らないと思われている《文学》にこそ、そして無価値であるがゆえにひとを癒すとまちがって信じられている《文学》にこそ、最高の価値があることを証明するためだ。ぼくは鬱勃として《文学》に人生を捧げるだろう。それは、そのためになら死んでもいいと思うからだ。生きることそれ自体が、《自由》でなければならないのなら、ひとは言葉を、あるいは表現を失ってはならないはずだ。人生が無価値ではないのなら、絶対に《文学》も無価値であってはならない。たかが《文学》などという言葉を吐くようなひとに、《文学》が挫折の形態だなどとのたまうひとたちに、絶対に文学者と名乗らせたくない。
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おそらく、愛嬌たっぷりのガリレオや、勇敢で壮絶なジョルダノ・ブルーノが生死を問われたのは、この地点だったはずだ。科学は、けっして人生にとって無価値ではない。というか、人生も、科学も、無価値ではないのだ。太陽か地球か。その選択は、けっして人生にとって取るにたらぬものではない。太陽か地球か、生死を分かつこの選択がかけがえのない価値をもつからこそ、人生にもまた、価値がある。さまざまな仕事にたいして、自己本位な価値の認否があるのではない。さまざまな仕事が価値をもつからこそ、人の生は価値をもつ。
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男はわたしにこう言った。「こうした場所でこの問いが問われた時、あなたは知のために、あるいは美のために、死ねるだろうか?」 いや、男はわたしに向かって言ったのではなかった。ただひとりで喋り続けていた。
自分の仕事が、生命という篩にかけられる形で値踏みされて価値が量られるのではなく、生命と仕事の価値とがちょうど天秤でつりあっているような場所がある。つまり、ガリレオやブルーノが生死の裁きを聞いたのと同じ、あの荘厳な法廷だ。そこでどちらを選ぶかと訊かれれば、生きるという判断も、死ぬという判断も、どちらも可能だと、ぼくは思う。もうそこは、罪の有無を審判する《法廷》ではなく、むしろすべてが価値であるような《世界》そのものと言ったほうがいい。彼らにとって生きること、それはすなわち科学者として生きることであり、ただ生きることによって生きることなどできないのだ。そうした場所では、彼らの仕事ができなくなるのなら、ブルーノやソクラテスや小林多喜二のように死ぬこともひとつの選択だ。ガリレオのように、ニーチェのように、そして本心ではカミュのように、生きることも、ひとつの選択だ。それは、どちらも、終わりではない。どちらが間違っているということもない。ただただ、悦ばしき悲劇であることだろう。
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わたしは彼の言葉を聞いて、よくわからないと思った。それで、「君ならどうするのか」と、わたしは尋ねた。
「ぼくならどうするか……?」 本当に悩みどころで、われながら大げさな問いでありすぎて、まだ全然、結論は出ていない。それに幸運にして、まだそういう問いを現実に突きつけられたことは、たぶんないはずだ。ただ、いずれにせよ、致死性の毒に等しいこの問いに答える準備はしておきたい。
ガリレオが生きるという選択肢を選んだのは、科学というか知が、生よりも価値がないからでは、けっしてなかったはずだ。むしろ、科学の力を信じ、地動説を信じたからこそ、そして自分が生きるかどうかなどたいした問題ではないと思ったからこそ、法廷であのように答えたのだ。もちろん、そうであるからには、ブルーノのように死んでもよかっただろう。ガリレオのように死にながら生きるのか、それともブルーノのように生きながら焼かれるのか、それはもうあの場所では同じことだった。ともあれ、ぼくには、ブルーノにもガリレオにも、本当に強い意志の力、《悲劇》的なユーモアの力を感じてしまう。彼らは、ヤヌスの双面のように、二人でひとつだ。
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ご存知のとおり、まだぼくにはほとんどまともな仕事はない。だからどのみち、まだまだずっと生きねばならない。だが、もし《文学》をついに書き上げたとき、死よりも生を選んだぼくは、きっと、やむをえない改稿を迫られるだろう。勇敢な死を選べなかったぼくは、筆を折られ、指を折られ、あるいはもっと悪いことに、二度と文学が書けなくなる一歩手前の最後の筆で、絶対に書きたくなかったことを書かされるのだろう。そして、死んだほうがましだったかもしれぬという後悔に苛まされて、精神の指を失って死にながら生きることになるのだろう。だが、それでもぼくは《文学》の力を信じるのだ。なんとかして、改稿のときにも、あとの世代に真実の美を伝える逃走経路を探す。その悦ばしき悲劇にすべてを賭けて――たとえ、なまぬるい転向論や、関心を括弧に入れることで本当の選択を回避してしまうような議論がその後の社会を覆ってしまったとしても。
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ひとは笑うだろう。文学と生命とを天秤にかけて迷っている自分を、指を指して笑うだろう。なぜ迷うことがある。選ぶべきは生命に決まっているではないか。――そう、それでいい、笑うのが一番正しい。なぜなら、ぼくは、ひとを笑わせようと思っているからだ。
文学者として死に、人間として生きるのか。それとも、文学者として生き、人間として死ぬのか。どちらを選ぶのも勇気がいるし、どちらを選んでも臆病だろう。間抜けなぼくにとって、これは大問題なのだ。
――だが、もうあなたはわかっているはずだ。本当に重要なことは、生きるか死ぬかではない、ということを。転向したかしなかったかなど、問題の焦点ではなかったのだ。こちらのほうがあちらよりも正しい、という議論には、絶対にならない。むしろ、この、生か死か、その問いのただなかで本当にひとびとが生きたかどうか、そして、そうした問いのなかで、あなたが生きられるかどうか、そのことが一番重要なのだ。生きることと死なないでいることはちがう。ブルーノもガリレオも、ソクラテスもニーチェも、小林多喜二もカミュも、みんな生きた。それは、《彼らがそれぞれの固有名を名乗るよりも先に、科学者であり、哲学者であり、そして文学者だったからだ》。
ぼくはそう思う。