1910年4月、大逆事件が明るみでるひと月前、血気盛んな若者たちによって、ある文芸誌が創刊される。その名は『白樺』、資本主義市場からは一線を画した、一度も商業ベースには乗ることのなかった、しかし文壇の天窓を開いたと言われた小さな雑誌である。2010年、関東大震災を期に廃刊になったこの雑誌が生まれてちょうど百年たった。だが、大手文芸誌はこの一事件を黙殺した。去年あたりから、どこかはとりあげるだろうと思っていたが、11月になり、確定事項となった。この雑誌は、ジャーナリズムによる記憶の烙印から逃れ、忘却の大洋に消え去ることになるのか。白樺同人のある作家の言葉を借りれば、彼らはナイルの一滴であった。モニュメントとなることを嫌い、記念されることを拒んだ彼らは、大洋の一滴であることを自ら望んでいた。それがいま、密やかに、実現しつつあるのだと思う。
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風変わりな歴史家がいる。彼は、ひとの忘却を指摘して回ろうとは思っていない。つまり、忘れられた記憶を呼び覚まそうとは思っていない。むしろ、いかに忘却を忘却のまま扱うかに苦心している。どうすれば、忘れられた記憶は、想起から逃れて美しい忘却のままにしておくことができるのか、そればかり考えている。忘却は不思議なものだ。周囲の他人でも、明日の私でも、とにかく誰かに指摘されないことには、忘却はあらわれない。しかし、その瞬間、忘却は忘却ではいられなくなる。「想起」によって忘却は記憶として呼び覚まされてしまう。記憶と非知の境界に位置する忘却、自意識と他者のあわいに位置する忘却を、風変わりな歴史学者はもっとも重要だと決めつけていた。われわれは、いつもなにかを忘却しているにちがいない。記憶に、大切な麗しい思い出と、つきまとう不吉な思い出とがあるように、忘却にも、美しいそれと醜いそれがあろう。麗しい記憶をさらに美しく化粧する忘却を否定する必要はないし、不吉な思い出を海の底に捨てる忘却も否定する必要がない。なんと忘却は想像力豊かなのだろう。記憶と忘却の兄弟愛は、どうしてこれほどに優美なのか。その彼がもっとも気に入っていたのが、白樺派のひとたちだった。他人に認知されぬこの風変わりな歴史家は、自分の味方が増えたことを喜んでいた。これでまた、あらゆる言葉をリプレゼンテーションに変えてしまう、「想起」を逃れる革命がまた一歩、われわれに近づいたのだ、と。というか《想起》とは、忘却の別の名ではなかったのか、と。《想起》をわれわれの手のなかに奪還しようではありませんか……。
ひとが記憶の烙印を押さぬ小さな出来事こそ、文学者が好んで取り上げる素材である。この小さな事件のほうが、世界史とつながっていると、彼らは思いこんでいる。痕跡を残さぬ忘却の徴を、彼らはその事件に貼り付ける。公文書や新聞の大見出しになりそうな大事件ばかりにかかわる歴史を非難するために、彼らが見つけ出した方法が、《小説》である。小説は稗史である。そうであるにもかかわらず、というかそうであるがゆえにこそ、それは世界史的なのだ。白樺同人のあるひとりは、夢殿の観音像の作者の名が伝わらなかったことを、夢見るようにうらやましがっていた。すべての芸術家が、それを目指しているといって、嫉妬の目を向けたものだった。
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白樺同人のあるひとりは、言文一致体を完成させたといわれる。だが、いまやわれわれは、それを意識することがない(言文一致体をあれほど非難していた批評家たちが、彼のことを忘れて彼の言葉を使っているのは不思議なことだ)。彼はそこに《署名》するのを忘れてしまったからだ。あまりにも巧みにとけ込んでいるから、それと気づかないだけで、彼は、そして彼だけではなく、古いたくさんの仲間たちは、言葉のなかで明滅している。彼らは別に著作権を主張しないし、われわれが意識しないことをむしろ喜んでいる。彼らの先輩たちの多くもまた、そうだったことを知っているからだ。
忘却の徴は、なにに刻まれてわれわれはそれを知るのだろうか。彼らはそれを声だと考えた。文字はもちろん歴史とつながっている。しかし、文字をすべて否定すべきだろうか? 文字を失えば、歴史は、記憶はおろか《忘却さえ残す》ことができない。どうすれば、忘却に奉仕するために、《声を書く》ことができるのか? 逆に言えば、どうすれば文字に、生きた――すなわち消え去る――魂を込めることができるのか? そのために小説家が取り組んだのが、言文一致体である。この技術は、忘却のための技術なのだ。ソクラテスは、パイドロスのなかで、文字とは忘却の技術だと言っていた。この言葉を逆転させるべきではない。むしろ完成させるべきなのだ。風変わりな歴史家は、古い小説家とともに、そのように考えるようになった。プラトニズムには、まだあまりにも記憶の残滓が目につきすぎる。プラトニズムを越える、もっと純粋なプラトニズムが必要なのだ。
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白樺同人のあるひとりは、鮮やかな言文一致体でこう言っていた。
私は自分の仕事を神聖なものにしようとしていた。ねじ曲ろうとする自分の心をひっぱたいて、出来るだけ伸び伸びした真直な明るい世界に出て、そこに自分の芸術の宮殿を築き上げようと藻掻いていた。それは私に取ってどれ程喜ばしい事だったろう。と同時にどれ程苦しい事だったろう。
彼はこの「神聖」のために、彼がもっていた広大な土地を彼の小作人たちに贈与した。そして「ヴァガボンド」になれたことを自画自賛していた。多くのひとは、彼を笑った。また今日では、その神聖な努力の産物を批評家たちが「ジャンク」扱いしている。だが、彼ら以上に、小説家たちのほうが腹がよじれるほど笑いころげたものだった。その神聖な努力を笑いそして祝福した。忘却を恐れる必要はない、忘却について語るがよい、なぜなら、われわれこそ、そしてなによりあなたがたこそ、その忘却だからだ。名を売ることを恐れる必要もない、むしろ名など売り飛ばしてしまえ、出来事の神聖を保つためなら。純粋な論理と純粋な固有名のあいだにこそ、あの猥雑な無名の神聖がある。彼らが歴史家に教えたのはそのことだった。
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彼らの芸術には、無名のひとたちのために捧げる努力の跡があった。慎重に痕跡を避けて消え去る魂の震えの跡をたどろうとする努力があった。風変わりな歴史家はそのことをたいそう喜んだ。自分の仲間がいたこと、自分の孤独な道の先を行く偉大な先輩がいたことを、心強く思った。そして心の底から彼は、無名のひとたちのために白樺を讃えようと思った。