柄谷行人の膨大な著作は、そのそれぞれが、独立して読める素晴らしい作品ばかりだが、しかし、これらを、一連の物語として読むことも可能である。物語として?彼がもっとも批判するもののひとつが、物語ではなかったか?ひとは、出来事を安易に物語にしてしまう。このような物語化を遠ざけるべきなのは、もちろん、当の柄谷行人の著作も例外ではないはずだ。だが、彼が物語批判の急先鋒であったことを承知の上で、敢えてこう言いたいのである。
彼は、つねに移動している。同じ対象を扱ってはいても、『内省と遡行』の柄谷と、『探求』の柄谷は、違う。『探求』と『トランスクリティーク』も違う。たとえ、同じ結論になっていたとしても、それでも、やはり違うと言うべきだ。その意味では、彼の著作を物語化するのは不可能である。というのも、つねに移動している以上、帰結となるべき著作を決定できないからである。結末こそが、あらゆる出来事を結び付け、集束させるポイントになる。この結末が移動してしまえば、帰結することのできない出来事は、発散せざるをえない。物語化しようがないのである。しかし、人間は、思考するとき、絶えず物語化して思考するように訓育されている。だから、彼が、著作を出すたびに変わっていくことを警戒しながらも、なお、一番最近の著作に過去の著作を結びつけるようにして、彼の著作を理解する。仮に『トランスクリティーク』が結末だったとすれば、『内省と遡行』も、『探求』も、クライマックスを用意するための導入に過ぎない。一連のセリーが、クライマックスに向けて集束するとき、柄谷の著作群は《物語》として構造化される。そのとき、それらは、単独で読まれているときとは違った別の《意味》を生産し始める。以前、『探求』がクライマックスだったときに見えていたはずの《意味》は、とくに移動そのものを結論とする『トランスクリティーク』というクライマックスによって喪失し、かつて自分が信じていた物語=解釈が根底から揺るがされる。このスリリングな瞬間は、やはり、柄谷の著作を物語化することによってしか味わえないものである。柄谷と同時代を生きているわれわれの特権として、わたしは、柄谷の著作の物語化をお薦めする。