独我論と孤独

criticism
2021.07.18

ドゥルーズは、たしかどこかで(『差異と反復』だったか)、思想家が本質的に孤独な独我論者であることに言及していた。たぶん、バトラーのエレホンを論じたくだりだったか。その近くでカントについても言及していた。デカルトの「我思う」が「我在り」にいたるには、時空間が必要、という考えかた……。

読んだのは10年以上昔だし、手元に『差異と反復』もないので、正確ではない。コギトの手前に、場所がなければならない、というカントの考え方は、痛切なものだ。カントの思いは理解できる。世界に居場所を与えられない、多くの若者が、余白を求めて、さまよっている。できるだけ小さくなって、それでどうにか隙間にもぐりこめたらいい、と。

no-where。居場所はない。カントは正しいが、本質的に、思想家に居場所は与えられない。戦場をさまよった若きデカルトのごとく。ひっくり返すのは、大変なことだ。偉大な西田幾多郎はそれをやってのけた。居場所のなさを転倒させて、「無の場所」と言ったのだ。彼はそれで思想家になった。彼の彷徨った道は哲学の道と呼ばれるようになった。

居場所の与えられない自分の不安を世界の不安だと思い込むような独我論が、人文学者には求められている。自分が若者に求めるのも、それだ。君の悩みが世界の悩みでないなら、君はいかにもオリジナルな存在だ。かえってきっと、場は与えられる。そうでないなら、君の居場所は世界ということになる。

自分にオリジナリティはあるのか。もしないならば、それは、君が世界を悩んでいる=世界が君を悩んでいる、その証なのだ。オリジナリティなど、それほど気にする必要はない。君は世界にとてもよく似ている。だから、君のいま悩んでいる悩みは、けっきょく、世界の悩みなのである。

若いひとが、自信満々に、悩みなしに生きるのではなく、自信満々に、自分の悩みは世界の悩みだと思えること。それが大切だ。自分が傷付けば、世界の指先がほんとうにささくれて、一日その痛みを気にしていなければならなくなる。

真にオリジナルな仕事を、若いうちからできるひとというのは、きっといると思う。だが、人文学者の大半は、おそらく自分がそうだったように、自身のオリジナリティにいまいち自信の持てなかった人間のはずだ。しかし、だからこそ、かえって自身の悩みを世界の悩みと考える反転が可能になり、やがて必然的に、独我論者になる。

世界に自己が回帰するだけでなく、世界が自己に回帰してくる。君とぼくは、とてもよく似ている。似ているからにはちがっていて、ちがっているけれど、みな同じ。自分は世界、世界は自分。ニーチェの永劫回帰。

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