現代社会のなかにいれば、優先順位をつけるのが馬鹿馬鹿しくなるほど、価値観がめまぐるしく推移している。歴史のほうは、もっとずっとゆったりした時間のなかで推移している。だがそれでも、事実の重みは——だから軽さも——たしかにある。われわれが人間という概念から自由にならないかぎり、当のその概念が、重さを生み出す。
怒り狂っている友人を宥める言葉、嘆き悲しむ恋人を慰める言葉。翼ある言葉ならば、重たい事実も軽やかに舞う。怒りや嘆きをかさねる重い言葉もまたあるかもしれないが、自分なら、歴史は前者とともにあるというだろう。重苦しい事実を軽やかに踊らせる力を、歴史の言葉はきっともっているからである。
ところで自分は文学も哲学も愛しているが、自分のいうような言葉の軽重の問題は文学であって歴史ではない、哲学であって歴史ではない、と思われるかもしれない。だが、それはずいぶん歴史を小さく見積もった見方だと感じる。人間の歴史であっても哲学に触れられるし、文学にも触れられる。歴史家はその程度には歴史を信頼していい。
人間は、智恵を愛する哲学者のように的確に言葉を使えるわけでもなければ、天賦の才に満ちた文学者のように想像あふれる物語を描けるわけでもない。だが、何千年かけて、行きつ戻りつしながら、おのれの哲学を磨き、物語を紡いできたのである。そのことは、もうすこし誇りに思っていい。
100年前に犯した、世界大の異常な殺戮で歴史を終らせてよいはずもなく、この殺戮の歴史を際限なく繰り返すことがよいわけもない。人間の歴史が、哲学者の理性ある言葉や文学者の美しい物語に追いつくためには、まだ長い歴史が必要かもしれないが、歴史を諦める必要はまったくなかった。
◆
「理論的に語る」とはどういうことだろう。それはけっして、哲学者や批評家のように、論理的に、あるいは数学的に語る、ということではない。彼らの言葉を借りれば、一見理論的にみえるかもしれないが、そのことが理論を可能にするのではない。そうではなく、自分の言葉で語る、ということだ。
抽象性や論理性が理論を可能にするのではなく、自分の言葉、つまり内側から出てきた言葉が「理論」を可能にする。プラトンでいえば「イデア」がそれだし、デカルトでいえば「コギト」がそれだ。カントなら「批判」、ヘーゲルなら「精神」。文字通り一貫して、彼の内側を貫いているたったひとつの言葉。
フーコーなら「言表」、ドゥルーズなら「生成変化」。そうした言葉は作家にもある。志賀直哉なら「気分」。気分は彼を貫いていて、すべての言葉はそこから発している。彼は近代文学史上もっとも理論的な作家である。漱石のように、借り物の論理を貼り合わせてその中間をとるような曖昧さが一切ない。
理論を抽象性や論理性で定義するかぎり、理論は現実に勝てない。経験論的な実証主義に遅れをとることは、あきらかだ。君の内側からでた、自分の言葉であることが、「理論」と呼ばれるもののすべてである。だからこうもいえる。自己を突き詰めることの甘さは、そのまま理論の稚拙さに現れてしまう。
ドゥルーズのような哲学者、志賀直哉のような作家、ミシュレのような歴史家、つまり自分の内側からでた言葉だけを語ろうとするひとたち。そうした者たちの態度を学ぶことは、おのれを突き詰めようとする若者にはどうしても必要だ。彼らの論理を借りることで彼らのような人文学者になれるわけではない。
◆
われわれのなかにも、人間の芽がある。芽は人間になりもすれば、ならないこともある。人間を自分自身のこととして考えることが可能であるかぎり、客観性を条件とする科学者にもまして、われわれは人間の学問を深めることができる。自分自身がそこにないなら、科学者に劣るのはやむをえない。
新しい資料が発見されるたびに、自説が覆ってしまうような学問しかできなくなる。人間をみることが少なければ少ないほど、年輪測定や資料保存のテクノロジーに学問が劣ってしまう。といっても、科学者は、自分の学問が普遍性よりも恒久性のもとにあることを承知している。その潔さは清々しい。
フーコーが言説を批判して「言表」といったとき、彼はわれわれにこう言っていた。自分の言葉で語ることだ、と。ミシュレが革命といったときもそう。自分の言葉で語れる時代になったのだと。ドゥルーズが生成変化といったときも。君たちは何ものにもなれる、と。志賀直哉が「気分」といったときも。
イデアも、コギトも、批判も、精神も、差延も、すべて、自己自身の表現だ。自己自身の深奥に向かって掘り進み、地下にどんどん潜っていくことが、かえって天上につながっている。そこには《底抜けの明るさ》が、つまり革命があるわけだし、そこに人文学の、洞窟の奥をほの暗く照らす光があるわけだ。
自分の言葉で人間の歴史が、あるいはそうまでいわずとも日本人の歴史が、もっと小さく見積もって近代日本の歴史が語れるなら、ほんとうにすばらしいこと。借り物の言葉でなく、自分の言葉で日本の近代の歴史を語れるようになることが、自分の幸福と思う。右や左のイデオロギーに囚われることなく。
◆
もし、ひとりひとりが、ほんとうの意味で自分の言葉で、日本の歴史を語れる時代が来たなら。おそらくそれは民主主義の抱く夢である。人間に期待する哲学や文学の奥深さが、そのまま描かれた歴史の美しさに現れるはずだ。