丸山真男はこういっている。
本来、理論家の任務は現実と一挙に融合するのではなくて、一定の価値基準に照らして複雑多様な現実を方法的に整除するところにあり、従って整除された認識はいかに完璧なものでも無限に複雑多様な現実をすっぽりと包みこむものでもなければ、いわんや現実の代用をするものではない。それはいわば、理論家みずからの責任において、現実から、いや現実の微細な一部から意識的にもぎとられてきたものである。従って、理論家の眼は、一方厳密な抽象の操作に注がれながら、他方自己の対象の外辺に無限の広野をなし、その涯は薄明の中に消えてゆく現実に対するある断念〔強調は丸山、原文は傍点〕と、操作の過程からこぼれ落ちてゆく素材に対するいとおしみがそこに絶えず伴っている。この断念と残されたものへの感覚が自己の知的操作に対する厳しい倫理意識を培養し、さらにエネルギッシュに理論化を推し進めてゆこうとする衝動を喚び起すのである。(『日本の思想』岩波新書、60ページ)
理論家は、現実に対する「断念」と、そして理論化(抽象化)の過程でとり残されたものに対する「いとおしみ」とを有している――これが、丸山の主張である。ぼくには、この議論から、即座に、彼がもっている、あるひとつの論理的根底のようなものを見つけ出すことが出来る。それは、カント‐ヘーゲル主義であり、とどのつまり、《弁証法》である。当然、このようなタイプの議論は、戦後のある時期以降には、散々批判されてきたものである。この議論の粗を指摘するのは、いまでは、それほどむずかしくはない。丸山のいうように、理論家の行なう操作が、たえず現実から、なにかをこぼれ落ちさせるのだとしよう。抽象化という語を、この学者特有の意味で厳密に使用するかぎり、それは、避けられない。むしろ、そのことを受け容れなければならない。だが、にもかかわらず、理論家には、指のあいだからこぼれ落ちたものを再び掬おうとする「衝動」がある、という。この「衝動」の根拠は明らかではないが、それはひとまず問わないでおこう。問題は、丸山のような形で「抽象/理論」化という語を使用するかぎり、なにをどうあがこうが、永久に真理には到達し得ないことが、その学究のはじめから承認されてしまうことである。
それにもかかわらず、この理論化(抽象化)の過程がなんらかの真実に近づいている、と理論家自身にみなされているのであれば、それは、弁証法以外のなにものでもない。つまり、彼の言葉はつねに現実とは異なる、抽象化された理念なのだが、にもかかわらず、それが現実に近づくというのだから。この理論家の「エネルギッシュ」な「衝動」が、そうして真理に近づいていくという夢想を根拠としているのであれば、彼は、ヘーゲル的な観念論者、もっというなら、彼がこの引用の冒頭で批判したとおぼしきロマン主義的な観念論と、結果的にはなんらかわりはない。そもそも、彼は対象の背景に「無限の広野」を認めている。したがって、じっさいには、彼がなにを行なおうと、真理には永久に到達できないし、そればかりか、近づきもしないのである。
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とはいえ、そうしてヘーゲル主義的に丸山を読んでも、おもしろくもなんともない。「断念」という語の強調を、極大まで拡大してみよう。そうすれば、この発言は、ただちに、もっとデリダ的なものに変身する。テクストの外部について、理論家は、「断念」せねばならない。そうであるがゆえにこそ……というわけだ。
かりに、ヘーゲル主義的な、理論と現実の弁証法を前提しないでこれを読むなら、丸山は、けっして、この議論において、理論家の「エネルギッシュ」な「衝動」の根拠を明かしていない。この理論家は、はじめから理論が現実に到達するのではないことを知っていながら、にもかかわらず、そうした理論化を行なおうとする。したがって、この「衝動」は、彼をすこしも前進させない「衝動」なのであるし、じつは、この丸山の議論は、もっと奇妙である。おそらくは、丸山が、心のどこかで無自覚のうちに認めていたような、こうした無根拠な「衝動」において、読むべきなのだ。……
実際には、丸山は、構造主義的な観点、もっといえばデリダ的な観点から非難されてきた。それは、ぼくがいまさきにうえで行なったようなやり口で、である。だが、丸山の議論の構造は、ぼくらが思っている以上に、もっとデリダ的である。大胆な言い方をすれば、印象はずいぶんちがうが、丸山とデリダは、それほどちがっているわけではない。現実について「断念」しつつ、「いとおしみ」と「衝動」をもつ、という、この学者のスタイルは、テクストと外部とを遮断しつつ、その断絶を受け容れたうえで、脱構築を試みようとしていたデリダのスタイルと、同じである。
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この手の議論は、その断絶の大きさを競う議論になりがちである。丸山は、ロマン主義的な、つまり即自的な自他の統一を認めない。デリダは、ヘーゲル的な弁証法も認めない。ここにはもちろん差異はあるが、しかし、質的には変わらないのである――というか、まさに、こうした違いのことを、ひとは思い入れを込めて、「質的に違う」と言いたがるのだろう。この方向で議論していけば、いずれ、カントの《物自体》にまで行き着くことは眼に見えているのである。もちろん、そこまで遡らなくとも、ゲーデルの不完全性定理で充分なのである。柄谷行人が典型的だが、柄谷はデリダを批判して、その枝葉を刈り込んで、ゲーデルの不完全性定理からカントの物自体にまで洗練してしまったわけである。丸山にせよ、デリダにせよ、柄谷にせよ、その無根拠な「衝動」には感心するし、認めもするが、しかし、もはやぼくは関知しない(ぼくのほうでされているはずもないのだが)。
そもそも、ゲーデルの不完全性定理はどう考えても二流の議論である。たしかに、現実と言葉とが、一致するなどと考えている三流は批判できるだろうが、じつは、そんなひとは、たぶん、ほとんどいない。いたら狂人である。そのレヴェルでは、まちがいなく、言葉と現実とが違うことくらいはあきらかに知っている。もともと、一流は、そんな議論とは無縁にやっているのである。たとえば、絵と現実は、あきらかに違うし、数学と現実も、あきらかに違う。だが、にもかかわらず、画家や数学者は、それを真理として、絵を描き、真理として、公式を編み出しているのである。アインシュタインの相対性理論は、あきらかに、彼なりに研ぎ澄まされた絵筆で描かれた絵画なのである。彼は、量子力学には反対したが、それは、ゴッホがゴーギャンのような絵を描かなかったのと、同じことである。
花田清輝のように、アヴァンギャルド芸術を非現実とみなし、そこから反転し、現実世界へと目を向けるための否定的媒介とみなすような論者がある(だから、花田は、彼一流の「レトリック」を弄して、アヴァンギャルド芸術を否定的に絶賛してみせる)。これも、じつは、丸山や柄谷の議論とそう変わるわけではない。非現実。虚構。彼らは、こう考えている。学者や芸術家に求められているのは、ひとを現実へと振り向けさせるための非現実や虚構を仮構することだと。そしてそれこそが、真のリアリズムだと考えている。このようなひとたちは、哲学や芸術、科学が、本当はなにをやっているのか、わかっていない。あげくのはてに、今日では、現実との接点を欠き、ついでに緊張感も欠いたマンガやゲームが、花田がアヴァンギャルド芸術を褒めたのと同じやり口で称賛され、腐敗が進んでいる、というわけだ。ぼくらは、戦争という悪性の腫瘍を外科手術をやって取り除いたはいいが、そのとき、大事な《戦争機械》(ドゥルーズ&ガタリ)という神経も一緒に切り取ってしまったらしい。
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絵画と現実がちがうだとか、数学と現実がちがうだとか、そんなことを、ゴッホやアインシュタインにいえば、もちろん笑って、こういうだろう。「そのとおり」と。ぼくならそこに「よかったな」とも付け加えるだろう。しかし、それは、出発点とさえ意識されないような、前提中の前提なのであって、そんな議論をことさら強調する必要はないのだ。べつに否定はされない――というか、ぼくらは、なにひとつ否定などしないのだ。ニーチェのいった、三度ヤーだ。だから、彼らは、たんに、そんな議論とは、いちはやくおさらばした。労働者が穴を掘るのと同じ力強さで、ぼくらは、ぼくらで、ほんものの作品を作りあげるのだ。だから、ぼくらもさっさとそんな議論にはおさらばしよう。ゲーデルの不完全性定理だって、立派に現実である。なぜなら、この定理は、なにも起こさない、ということを起こしたからだ。丸山も、デリダも、その理論が、なにも生み出さなかったというそのことにおいて、立派に現実的だった。
穴を掘り、ビルを建て、絵を描き――そういえば、スーラは、絵を描くことを、壁に穴を開けることだと言っていた――、数学の公式を作りあげるように、ぼくらはぼくらで、三流と呼ばれてもいいから、立派な作品をつくればよいのだ。そして、こう言えばいい、優れた理論と、そして優れた現実は、あなたがたが思っているようにではないとしても、必ず《一致する》のだ、と。もちろん、それは、丸山やデリダが忌み嫌う狂気であるけれども。……