歴史家が向き合ってきたもの、それは瓦礫である。一般に、歴史家が扱うのは文献である、と考えられている。ならば文献と瓦礫とが同じものだと、この書き手は言おうとしているのかと、読者は疑うかもしれない。もちろん否である。瓦礫、それは緩慢な、あるいは急激な破壊ののち残されたなにものかであり、文献のように同じままで(《解釈》という用語が許す範囲でのみ自由はあるとしても)保存されるべきものでもなく、むしろかえって捨て去るべきものである。だから文献と瓦礫とはまったく相反する概念である。一般に、文献になにがしかの価値が認められているとすれば、瓦礫のほうは無意味であるか、さもなければ有害であると考えられている。事実、瓦礫が瓦礫であるかぎり、ひとの生活を阻害するだけである。しかし、奇妙なことだが、そうして阻害するものであるかぎり、文献とちがって、ひとの生そのものに、悪い形ではあれ、具体的に参画する。文献が《現実》と切り離されたところで、原典からつづく、ただ言葉だけの解釈の鎖列をつなげていくとすれば、瓦礫はむしろ、過去から未来へと至る現実の時の鎖列に介入し、邪魔するものである。
逆にいえば、文献学者が、おのれの扱う文献を瓦礫と心得ているならば、彼は文献学者ではなく、歴史家である。瓦礫としての文献は、それが定着している紙や石盤といった平板で閉じた世界を超えて、実際に現実のひとの生活のなかに入り込んでいく。なぜなら、それは行為として(比喩ではなく)手をふりあげて放棄されねばならないからである。しつこくまとわりついてくる言葉を捨てようとして、それに成功するなら、そこに自由な余地ができる。これが瓦礫としての歴史がはたす、真の《現実的》役割である。こうした歴史家は、文献を扱うアーキヴィストであるが、むしろアーカイヴが時のもたらす破壊のなかでのみ生き生きすることを知っている、つまり他人からみればアンチ・アーキヴィストにさえみえるような、真のアーキヴィストである。つまり彼は、保存という言葉を、もっと深い意味において、あるいはもっとも浅い場所にある《現実》において、考えようとしている。
そこでは、言葉はただ言葉だけの(悪)循環を続けるのではなくなる。言葉とモノとが、具体的に交渉をはじめることになる。ひとの生活を阻害する瓦礫であるにもかかわらず、その阻害ゆえにひとの生は未来を強いられ、かえってそのために生き生きとしだして、結果として、瓦礫は次の新たな生を促すことになる。だからひとはいつも瓦礫を生み出し、またそうするかぎりで、ひとの生は未来にむかって縦に紡がれていった。また言葉のほうからいえば、その背後に瓦礫を生み出すという形においてしか、言葉が真の意味で(すなわち出来事として)飛び立つことはなかったのである。したがって、歴史とは、その本質からいって、悲劇である。そして歴史を悲劇と理解するときにのみ、黄昏時の学問であることをやめる。歴史は暁の学問となる。
だから、われわれ《哲学的な》歴史家は次のように問いかける。瓦礫を忌み嫌うのではなく、また災害や戦争のあった地に温存するというのでもなく、この瓦礫をいかに活用すべきなのか、それも捨て去ると同時に次の生を促すような、そんな悲しいモノとしての彼岸の生を、いかにしてこの瓦礫に与えることができるのか。
歴史家は、災厄のあともそれ以前と変わらずに残されている遺物をみてもたいして悦ばない。僥倖ではあっても、むしろそれは、悪しき《希望》と心得て、破壊されて瓦礫となった現在にこそ向き合う。ひとが見向きもしない瓦礫にこそ、本当の歴史がある。その災厄が巨大であればあるほど、ますます彼は瓦礫に眼差しを注ぐ。彼は、瓦礫を通して、未来を探している。
新しい芽吹きを阻害しているもの、それが瓦礫としての歴史である。だが、にもかかわらず、この瓦礫からしか、新たな生が生まれることはないのではないかと、歴史家は考えている。未来は、たえず過去を通して生まれてくる、というよく知られた逆説を、彼は迷信している。瓦礫であることを手放した言葉は次第に文献学のなかでしか生きることはできなくなり、しかもその生はどこまでいってもかりそめの生である。その結果、現実もまた、運動することをやめる。それは悲劇よりも恐ろしい、そして馬鹿馬鹿しい、破局的衰滅である。
誤解を恐れずにいえば、瓦礫とは、一個の比喩である。ひとが愛でると同時に、捨てねばならない、歴史の歩みの比喩である。読者はこう思われるかもしれない。瓦礫のほうが比喩とは、いったいなんたる度を超えた逆説かと。歴史はついにひとの言葉にすぎぬのだから、歴史のほうが瓦礫の比喩ではないのかと。おっしゃる通りだが、わたしは内心、こう考えている。モノと言葉とのあいだに、そう大差はない。たんなる言葉だけの世界は存在できないし、モノだけの世界も存在していない。結局、言葉がモノの比喩であるとすれば、モノもまた言葉の比喩なのである(ジャック・デリダは本当の世界の半分だけをしか見ないで死んでしまった)。こうした不思議なアレゴリーの世界のなかで、ひとは生きている。若者は注視している。あなた方大人が生み出した瓦礫から、いったいあなた方はなにを生み出すのか、と。なにも生み出せないというのなら、わたしたち若者が、使い方を教える。若者たちは、大人たちの生み出した瓦礫のなかで遊ぶ。優雅に、無邪気に、そして思いもよらぬやり方で瓦礫を用いて、おのれの社会を新しく作りかえる。
こうした言葉とモノとの不思議な関係のなかからわれわれが学ばねばならないのは、ひとはなんらかの言葉を残すかぎり、たえず瓦礫を作り出しているということであり、瓦礫を通してのみ、ひとの未来は紡がれてきたということである。瓦礫なしにひとの歴史はありえなかったし、それは捨て去るべきものであったとしても、捨てるという悲しみのなかでのみ、言葉はひとの生に参与できるということである。といっても、その悲しみは、すぐに悦びにかわる。瓦礫とは、次の生のために犠牲に捧げられるような、そんな不思議な《モノ》である。《おのれの作り出した有害な瓦礫から、新しくなにを生み出すべきなのか》、そうした問いを立てることによってのみ、ひとは、言葉の真の意味で人間である。そのことを忘れるなら、この形だけで中身のない人間は、彼が自覚せぬうちに、次代の若者に取って代わられるにちがいない。