さて、仕事が終わったら、大切な仕事が待っている。どれも不真面目な自分には分不相応な仕事だ。教室で若者たちと向き合い、史料を介して過去の偉大に触れ、そして未来に向けて論文を書く。非常勤ゆえ、いつまでこの仕事が続けられるかはわからないが、しかし、仕合せなことだ。
それにしても、論文を書いてここまで孤独な気持ちになったのは、はじめてかもしれない。自分がそれに触れたかどうかは別にして、真実というのは恐ろしいものだ。この扉を開けば光が待っていると思った。しかし、なんと孤独な光か。自分には珍しいことだが、すこし落ち込んでしまった。
歴史学者は一種の病人である。たとえば、ひとが死んだという「記述」だけで、本当にひとが死んだ、と思い込む分裂病者である。自分にはそういうところがあったから、近現代史はとにかく恐ろしかった。言葉のなかに広がっている光景に、心底ぞっとするわけである。
小説だ、といえば、多少の逃げ場はできる。だが、歴史となればそうはいかない。いろんなものが、自分のなかに入り込んできてしまう。だが、実際には、歴史学者は、それとは別のことをしている。その史料には、本当のことは書かれていないと考えるのが、近代の歴史学者だからである。彼らはたしかに表面的には健康だ。
自分が西洋古代史に進んだのは、古典が好きだったというのもあるが、単純に日本の近代史が恐ろしかったからでもある。歴史を愛していたが、歴史の事実に耐えられる強さをもっていなかった。そういうひ弱さにかけては、ぴかいちの人間である自覚がある。
史料批判を経たものだけが事実だ、という言い方をしても、別に分裂病であることから逃れられるわけではない。その他の科学とちがい、歴史だけはどうしても実験できないのだから。しかし、構成主義者のように、言葉と出来事とは違うといったところで、病から逃れられるわけではない。
というのは、言葉(仮象)と出来事(現象)とをカントのように区別したところで、そもそも、その区別については現実的であることを信じているからである。ほんとうに黙るのでもないかぎり、「沈黙」もまた言葉なのだ。構成主義者はその一点において、無意識の分裂病者なのである。