独白とはなにか。この奇妙な言葉について考える際に重要なことは、ある観点をこの問いに紛らせないことだ。すなわち、社会である。つまり社会化されない言葉は、すべて独り言である、と考える立場である。たとえ複数の人間のあいだでかわされる会話だろうと、ある種の公共性を欠いたお喋りであるなら、それは独り言と同じなのだ。だが、その場合、「社会」をどのように定義するかによって得られる回答が変わってしまうという難点がある。とりわけ「社会」は、論者によって使用法が異なるきわめて多様な概念である。この難点を避けたいのであれば、独白、すなわちひとりで語ること、という用語に内在的な意味内容に即して、この状態がどのようなものかを考えていかねばならない。またこうした考え方のもうひとつの難点は、この定義によって生じる独白には、まったく価値が認められない点である。社会的に認められないような言葉は、当然価値がない。したがって、そもそも独白について考察を巡らせることに積極的な意義が見出せなくなってしまう。
さて、独白について思考を巡らせるとき、思い至るのは、この相手のいない言葉には偽がありえないということ、したがって偽と対称的な真もまたありえないということである。真か偽を判断する他人が存在しないからである。独り言で、自分を偽るひとはあまりいない。というか、偽るという観点そのものが出てこない。それはすべてが自分の考えの表明であって、嘘であるとか真理であるとかそういう判断や審判とは無縁の状態にある。
ふつう、自分を偽るのは他人と接するときである。内心疲れていても大丈夫と口にするとき。楽しいわけではないのに笑顔を作ってみせるとき。独り言にもかかわらず自分を偽るとすれば、それは意識的にせよ無意識的にせよ、おのれの言葉を聞く内なる他者が、おのれのなかにいるということである。また同様の観点から、自分の独り言を疑うときには、すでに話す自分とそれを疑う自分との対話がはじまっている。この告白者はおのれをひとつの人格に纏めきれずに、対話の状態に留め置かれている。この対話を独り言ということはできない。
そう考えると、独白はきわめて困難になる。多くの場合、ある時点での自分の独り言を、別の時点の自分が聞いているからである。ジャック・デリダのいわゆる「自分が―話すのを―聞く」、それはこうした状態についての優れた考察である。デリダは独り言とふつう考えられているもの、つまり偽であるとは考えられないような自己同一的なもののなかにさえ、差異を見出していく。それは話す自分と聞く自分の時間的差異によって規定されている。時間の最小単位である《刹那》を同じ存在が分け合うことはできず、《刹那》にしたがって存在はたえず分割されている。こうした差異を、時間的延長の意味を込めて、彼は《差延》と呼んでいる。
われわれは皮膚によって外界と隔てられている。皮膚の外に出た言葉は、どこかで折り返して耳から再び自分の体内に入ってくる。内と外を隔てると同時に繋いでいるこの皮膚が、独り言をほとんど不可能にしている原因である。思えばカントは内なる理性の世界と、外なる感性の世界を悟性によって区別していた。われわれの皮膚は、言葉にとっての悟性のはたらきを担っている。
皮膚としての悟性は、内からの刺激と外からの刺激を区別する。したがって、内(口)から外に向かって示された言葉は、外から内(耳)に向かってやってくるこの言葉を別のものとして把握する。皮膚は、もっぱらこれらの同じ言葉を区別するのであって、どちらが正しいかを判断するのではない。悟性からすれば、感性にせよ理性にせよ、一方が他方に優越するというわけではない。ただただ差異として区別される。悟性にとって、問題は外なる他者だけではない。内なる他者もまた問題である。
かつてなら、内なる精神世界の他者を神として超越させておけばよかった。あるいは精神世界の神を投影した物神を崇めていればよかった。神の超越を前提できぬ近代において、この手は使えない。しかしこのままでは分裂病を発症する。そこでひとまず理性に仮の高い地位を与える。それが、理性の《超越論的》といわれる状態である。超越論的理性は感覚によってはあらわれない神を仮象として悟性に提示する。悟性はただちにこれを感覚の世界にはありえないものとして否認するが、これを《超越論的に》に認める。
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皮膚によって、ひとは独白が不可能な場所につねに-すでに、投げ出されている。皮膚によって、ひとはつねに-すでに、他者とのコミュニケーションを強いられている。皮膚のおかげで、ひとは一人でありながら複数である。ひとりでいながら、共同体を形成する。つまり、悟性としての皮膚こそ、近代における国家にほかならない。
皮膚としての国家は、分裂病をわずらっている。国家は、内側では内なる他者の声に耳を傾け、外側では外なる他者の声に耳を傾ける。二つの声が対立していたとしても、この国家にはせいぜい、いずれにせよ頷くことはできても、面と向かって反対することはできない。この国家は、誰に対しても本音を隠しながら、相槌を打つことしかできない。彼は判断しない。区別する。彼は審判しない。認識する。《超越論的に》、内なる他者、すなわち国民の声を重要視する《ふり》をするが、外なる他者に対しても、同じような態度を取ることしかできない。かならずしも現実の外部そのものとはいえない、おのれの皮膚感覚のなかで、それを肯定する《ふり》をする。皮膚としての国家は、ついに本当のことをいうことができない。
皮膚とは、フロイトがいうように、外的な刺激の防衛機構である。皮膚という防衛機構をとおしてしか、外からの声が内に伝わることはない。また逆に、同じく皮膚としての防衛機構をとおしてしか、内からの声が外に伝わることもない。言葉はかならず媒介され、屈折する。
この国家は内に対して正直であれば外を裏切り、外に対して正直であれば内を裏切る。皮膚としての国家はいつも誰かの期待に応えようとして、誰かを裏切ってしまう。誰かを裏切ることなしに言葉を口にすることができず、嘘を吐きつづけるか沈黙するかの二者択一しか、彼には残されていない。
皮膚としての国家は防衛する。内部を守るために、あるいは外部を守るために、彼は嘘を吐きつづけ、それができなければ、やはりそのいずれかを守るために、沈黙する。皮膚は独白を憎んでいる。真偽の問いから離れたところで語られるという独白など、どうしようもないロマンティシズムに思え、独白に他者の存在を気づかせたがっている。言葉は本質的に嘘であることを教えたがっている。赤裸な他者を互いから隠すためにそれを嘘で塗り固めるか、あるいは沈黙によって覆い隠す。内部を防衛し、外部に取り繕うための嘘を手放すことはできなくなっている。
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皮膚は独白を憎んでいる。独白が不可能なことを、独白は知らないからである。われわれは独白とはなにかと問うた。そこで独白は無価値であるか、それとも不可能であるかの、二つに一つだった。しかしわれわれは、いかにして価値であるような独白が可能なのかと問わねばならなかった。