皮膚について

criticism
2010.07.18

ひとは他者について、とても表面的だと感じている。過去の文化や他国の文化について、それらはいかにも表面的に見えるのだ。これらはオリエンタリズムの一種だが、空間的なものではなく、時間的にも存在していて、古い演劇で用いられる仮面や隈取りをみて、昔のひとはなんと表面的だと驚くのである。

西欧の人間にとって、日本の文化はいかにも表面的で、記号的で、シニフィアンのなかで戯れているようにみえた。だが、その観念は、われわれが西欧の文化をみたときに感じたものでもある。キリスト教的だった西欧が日本に感じたものを、儒教的だった日本は西欧に感じたのである。

儒教の名分論は相当に内面的な議論だが、その一方で、表面的な儀礼を重視していればよいという礼楽的な思考もある。この両者は、じつは一体であって、戦のリアリティを欠く内面的な武士階級と浮世絵に楽しむ町人階級とが一体になって、理念と現実とを切り離す運動を行っていたわけである。

近代の自然主義を江戸時代の浮世絵文化と同一視する視点はいまだに根強いが、いずれにせよ、表面的な思考に対する非難が、カントのような「深い」思考に帰着するのは、必然性がある。とはいえ、こうした傾向は、浮世絵文化に対する武士階級的反動に近いものがあると思う。

オリエンタリズムに対する非難が他者の内面を認める方向に導かれるのであれば、能や歌舞伎に親しむひとたちに内面性を認める議論があってもいいはずである。たとえば、非現実的な仮面の向こう側に、真の悲しみやおかしみを感じるといった具合に。つまり、武士階級的な楽しみ方をしてもよかった。

カントの議論は、他者の内面を認める方向で進む。自意識を他者にも認めることで、他者を深さや距離において定義しようとする。結果的には、いくら武士階級が浮世絵を非難したところで、こうした議論にもとづくかぎり、町人文化は必然的に再生産される。

こうした傾向を続けるかぎり、社会そのものが想像的なものになり、芸術もまた想像的な傾向を有することになる。現実の不合理から目を背け、ひとときの憩いや癒しのために、芸術が存在するようになる。こうした状況で、芸術の価値は、ある一定以上の強さをもつことができなくなる。

他者の内面を認めようとする議論は、結果的に自意識をも保存する方向で進む。存在と実在は区別され、心身は二元論的傾向を有し、理念と現実は分離する。それを再び結びつけるために歴史や弁証法が要請される。

しかし、はじめに戻ろう。他者は皮膚であると考えよう。逆に自己もまた、皮膚である。ひとは皮膚として存在し、内と外を他によって挟まれているが、実際には、彼らもまた、わたしと同じように、皮膚なのである。ひとは地球の皮膚病であるが、われわれもまた皮膚である。

皮膚ならざるものは、切り捨てなければならない。自意識を抹消する、とは、自意識を皮膚として認めることである。ランボーのいう「われは他者なり」は、カントとは逆に進まなければならない。

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